ブログ (2021年1月~2021年12月 )


『ある葬儀に寄せて』

司祭 加藤鐵男

 

 その人は、風のようにあっという間に逝ってしまいました。心臓の持病を抱えていました。亡くなるひと月前には親戚の者に、「私はまだまだ、四、五年は生きれそうだ」と話しておられたそうですが、病院に運ばれて、数日で亡くなられました。

その彼女とは、コロナもあって、二年以上も顔を合わせていませんでした。亡くなる一週間前に、ふと、元気でいるだろうかと思い出していました。亡くなる日の教会でのミサの三十分前に彼女の親しい人から、「今、彼女が危ない状態です」と聞かされて驚いていましたが、ミサの始まる十分前に、「今、亡くなられました」との電話連絡が入りましたとその人から告げられました。ミサの中で、彼女の永遠の安息を願い、参列者と共に祈りを捧げました。

彼女の住まいは、当時としては珍しい温泉の大浴場がセールスポイントの分譲マンションでした。私にも、「ぜひ一度入りにいらしてください」と何度もお声をかけていただきながら、とうとう行けなかったのが、今にして思えば残念です。

彼女からは、三年前に、全てのことは教会の親しい人たちに依頼し、「私が亡くなった時の準備をすべてしてあります」と伝えられていましたが、正にその通りでした。

葬儀の始まる前には「これを流してほしい」と「私の葬儀のときに」・『聖堂で大好きなポップスを』というタイトルで御自分の気に入っていた映画音楽、聖歌、インストルメンタルの彼女らしさが伝わる楽曲が、お手のもののパソコンを駆使してCDに入れられてあって、それが聖堂に流されました。

葬儀は、質素に行うこと、そして司式司祭の希望まで伝えられていたことを知りました。本来なら協力司祭の司式である筈が、その司祭が病気になられて、私が司式することになったのも偶然ではなく彼女の希望がうちかったのかもしれません。

 そんな彼女でしたから、流行語にもなっている「断捨離」という物からの執着心を失くして、部屋をすっきりと片付けていたのではないかと思いました。私たちも見習うべき人生のしまい方だったと思います。まだ、まだと思っていても、その時がいつ来るかは、私たちには分かりません。その時が不意に襲って来ても、いつでもその準備ができていることが、必要なことを、彼女の生き様を想い浮かべて、しみじみと感じ取られました。

最近の私は、パソコンのキーを打ち乍ら音楽を流していることが多いのですが、次は何の音楽ににしようかと思い浮かべているときに、亡くなる二日前のこと、そういえば彼女から何枚かのCDを頂戴していたことを思い出し、タイトルをろくに見もせずに一枚を取り出し、聴きながらキーを打っていました。それが、葬儀の時に、「これを聖堂で」と彼女が以来していたあのCDだったのは偶然ではないかもしれません。

「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。」(エフェソ二章十節)。

 

 今、彼女は白石のカトリックの共同墓地で、帰天された二人の司教、大勢の司祭、信徒の方々と共に眠っておられます。今頃は、親しくなって、あちらで御ミサをやって私達のために祈ってくださっているに違いありません。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜21/12月号より 

 

 

 


『求めなさい』

司祭 加藤鐵男

 

 教区の資産活用の二番目の事業として山鼻教会の土地利用が提案されました。教区センターのように土地を賃貸して、その賃借料を有効に活用しようという計画です。その為には、山鼻教会を取り壊して更地にする必要がありました。その補償分として、真駒内教会程度の教会が建てられる金額を拠出するということになりました。

 その提案を受けることになって、新しい教会へのワークショップが何度も開かれ、若いお母さんたちは、子ども食堂をやりたいとプランを出しました。また、今後の教会を考えたとき、地域に開かれた教会を目指し音楽コンサートを開いて、教会に人々呼び込もうというプランも出てきました。できるなら、「教会にふさわしいパイプオルガンを導入したいね」と夢は膨らみました。早速、ワーキンググループが立ちあげられ、二、三年を目途に寄付を募ろうということが決まりました。すると、自分の葬儀のときにはパイプオルガンで見送ってほしいという人、老後の資金をぜひと拠出してくれた人、このプランに賛同してくれた多勢の人の善意が、大きな形となって当初計画の導入プランの金額に達しました。ところが、コロナ禍にあって当初の計画よりも導入金額が十%高騰していましたので約一割分が足りません。その分を、教会の資金から出してもらえまいかと言うのが、最後の関門となっていました。

 ところが、神様の力と恵みが働きました。他の教会の信徒から寄付の申し出があって、その分が埋まりました。当初の二、三年どころか、一年も満たないうちに、導入できる金額が集まったのです。

 みんな喜びました。きっとみんなの脳裏に次の聖句が浮かんだことだと思います。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」(ルカ十一章九節)。

 みんなが一つになって、何事かを成し遂げようとするなら、そこには、必ず神様の導きと恵みと力と希望が与えられるのだと信じて向かうことの大切さを思い知らされました。

 これからの新しい山鼻教会は、どんなことがあってもきっと前を向いて、みなで力を合わせ協力しながら歩むことができることを確信しました。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜21/11月号より 

 

 

 


『五分前の奇蹟』

司祭 加藤鐵男

 

 八十九歳で帰天された女性の葬儀を依頼された。いつもの通りご本人の経歴やエピソード、趣味などを聞かせていただき、説教の準備にかかる。御家族は、御主人と一男一女の四人だったと教えてくださった。娘、息子さんは信者だが、御主人は未信者だと聞かされた。御本人は、動機は不明だが五十歳の時の降誕祭に受洗しておられた。二人の子どもは、幼児洗礼であった。

 御本人は、御主人の理解のもとで教会活動にも熱心で、「いつか、主人も信者になってくれれば」との希望を教会の信徒に漏らしていたと聞かされた。

 コロナ禍での葬儀なので家族中心という遺族の御意向であった。通夜は、厳かに終わり、翌日の葬儀になった。九時からの葬儀ミサだった。始まる十分前に準備の点検に聖堂に行くと東京在住の娘さんが、集まった親戚に挨拶をしておられた。ちょっと会釈をして香部屋に戻ろうとすると娘さんから声をかけられ、昨夜父のエンディングノートを見ていたら、八十七歳なので勉強は無理なので臨終洗礼を受けて、パウロの洗礼名で葬式を教会に御願いしたいと書いてあったという話を聞かされた。「ああ、そうでしたか」と「分かりました。承りました」と答えて香部屋に戻った。祭服に着替えようと準備をしようと思った時に、「今では駄目なのだろうか」と、ふと思った。もしかしたらと聖堂の車椅子に座っておられるご主人に、娘さんからの話を伝えて「洗礼を受けませんか。亡くなられた奥さんも喜ぶと思います」と促すと「はい、受けます」というではありませんか。これから洗礼式を行いますと娘さん息子さんに伝えて、葬儀の始まる五分前でしたが、洗礼を授けました。

 葬儀ミサの説教の始めは、もちろんご主人の洗礼の話から始め、これで奥さんも安心し喜んで天国へ行かれたと思いますと皆さんに伝えました。

 葬儀ミサ終了後に娘さんから、「奇跡です」と喜びの声がありました。三週間後、娘さんからお祈りのカードを送ってここから始めていますと伝えられた。

「彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい。互いに平和に過ぎしなさい」(第一テサロニケの手紙五章十三節)。全ての人の平和が、イエスの望みであったことを、あらためて思い出された葬儀でした。 

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜21/10月号より

 

 

 


『トラピストでの個人黙想』

 

司祭加藤鐵男

 

今年の教区司祭の黙想会は、コロナ禍の状態の 中での開催は困難で中止となり、個々人で行うことになった。私は、トラピストを希望し八月の中旬を予定して修道院にお願いすると受け入れて下さった。車で出かけた。コロナ禍で一般の方の受け入れは行っていないとのことで客舎の扉は終日ロックされたままであった。寝泊りは、客舎でしたが、食事は修道院の大食堂で皆さんと一緒にして下さった。五日間に亘り三食とも与ることができたので、食事時の様子を知ることができた。朝食は、ミサ後に各自の祈りで始められた。昼食は、その週の週務者の祈りで始められ、食べ始めて直ぐに当番による読書が行われた。夕食は、聖堂での晩の祈りが終わり、個人任せの黙想が済んだ後 に、「アベマリアの祈り」で始まり、やはり当番による読書が行われた。

修道院の食事は、勝手に一汁一菜的なものと想像していたが、そうではなく、暖めた残り物、新しいものまで、栄養を考えた総菜が用意されていた。そして、何といっても取れたての野菜が新鮮で美味しかった。レタスのしゃきしゃきとみずみ ずしいこと、完熟トマトは固さもあり、きゅうりもさっと皮をむいて味噌を付けてたべると何と美 味しいこと、驚きだった。

修道院の本質は、「祈り働け」にある。修道院 の生活は、早朝三時四十五分からの読書課から始 まり、午後七時四十五分からの寝る前の祈りまで 一日七回の祈り、その間の各自に割り当てられた 労働と、全てを主に委ねられた者の信仰の生活は、 正に充実したものになっている。

私も少しでもあやかりたいと、祈りは全て参列し、労働は、修道院の計らいで三日目午前、午後と四日目の午前だけ、働かせて頂いた。昔取った杵柄で草刈機を使っての敷地内の雑草刈だった。プロが使う本格的な草刈機で重さもあるが、午前中は何とかこなしたが、さすがに、その日の昼休みは爆睡だった。午後からは、少し慣れて来て、一日無事終了した。翌日の草刈りはレタス畑畝の両端の雑草を刈る仕事だった。今回の労働の報酬は、自分自身まだ、体力があることを気付かさせてくださったことだ。「主よ、まことの神よ、私の霊を御手に委ねます。あなたは私を贖われた」(詩篇三一編六)

 

心に沁みた個人黙想だった。感謝、感謝、感謝。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜21/9月号より

 

 

 


 

 『地主名誉司教逝く』

司祭 加藤鐵男

 

 五月四日午後八時頃、地主敏夫名誉司教が、帰天されました。享年九十歳でした。一九六〇年司祭叙階、さらに一九八八年司教に叙階され、二〇〇九年に辞任されるまで、幼稚園、社会福祉法人雪の聖母園、天使病院などで園長、理事、理事長として多くの役職を歴任され、尽くされました。

 私が、司教としての最後の司祭叙階での司式でした。神学生時代、休みで帰郷するたびに、お小遣いを下さり、司祭叙階に際しては、必要だからと黒の礼服まで買ってくださいました。今となっては、懐かしい思い出です。

 地主司教様を思い起こしますと、一番先に記憶に浮かんでくることは、冬の除雪風景です。雪が降っている最中でも一定の積雪があるとご自慢の除雪機を車庫から出して、どこのおじさんが除雪してくださっているのだろうと思わせるような雰囲気で黙々と除雪してくださった姿が浮かんできます。ただ、勢い余って雪を飛ばし過ぎて、古い聖園幼稚園の窓ガラスを二、三枚割ることもあり、職員の新車の屋根に氷の塊が降ってくることもありました。勿論悪気はないのですが、ただ、夢中になると周辺の事情がよく見えていなかったようです。

 もう一つ思い出すのは、ローマ時代のお話です。同級生の色々な話、どこそこへ行った話、ドイツの高速道路を飛ばした話、ある修道院での話など、同じ話を何度も聞かされました。その度に、初めて聞いたように返事をしなければ悪いと思い、食事の度に聞かされたことを思い出します。自分もやがてこうなるのだと肝に命じながら覚悟していた事を思い出します。

 行動力のあるお方でした。食事中の昼のニュースで、今の新ひだか町の二十間道路の「桜が満開です」と聞くと食後直ちに車を走らせ、夕食までには帰って来て、その話題になりました。富良野の花畑が「色とりどりに美しい」とニュースで流れると夕食で「行ってきた」と話すのです。あの年齢で片道二時間以上もかかる道をよく車を走らせるものだと感心させられました。「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい」(Ⅰペトロ4章10節)。神様の下でお幸せにお暮しください。

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜21/8月号より

 

 

 


『今年の復活祭のたまご』

司祭 加藤鐵男

 

 昨年は開催されなかった復活祭は、今年は制限がある中にも無事に行われました。復活徹夜祭・復活の主日に洗礼を受けられた方々は、本人はもとより教会にとっても大きな宝であり恵みです。しかし、洗礼当日のお祝いのパーティは開催することが困難で寂しい限りでした。せめて復活祭には付き物の「復活のたまご」を、洗礼者や参列して下さった方々に差し上げたいと思っていました。が、このコロナ禍の中では信徒の間からは声を出しにくかったのだと思います。そういう機運は残念ながら私の担当している三教会からは、当初ありませんでした。それで、私から調理は大丈夫であること、ましてゆでる卵は、それだけでも殺菌されるので問題がないことを示して、持ち帰ることは何らの支障もないことを理解してもらいました。最初にお願いした教会では、担当のブロックで行うことを承諾して下さいました。後日、心配で参加されなかった方もおられたとは伺いましたが、無事に徹夜祭と主日の二日分の二百数十個のゆで卵を作ってラッピングまでして下さり、皆さん笑顔で一個ずつ貰って帰りました

 次の教会は、手を挙げて下さった有志の方々が、百個を作って下さり、皆さん喜んで貰って帰ったと報告をうけました。

 もう一つの教会は、運営委員会の時に私が他の教会の話をしますと、それではうちの教会もやりましょうとなりました。しかし、誰が作るのかとなったときに委員長が音頭をとって、呼びかけては話がまとまり、参加している人たちが私も私もと手を挙げて下さりあっと言う間に出来る態勢が整いました。後日談で、たまごをゆでている時に、余っているお米で「五目飯」を作ろうとなって主日に販売したと聞きました。いまのコロナ禍の中で、もちろん制限はあるのですが、その中でもただ恐れるのではなく、出来る事を少しでやろうという機運が大事なのだと思います。どんなに困難な状況でも、小さなことでも出来ることはあるはずです。果敢に挑戦していく気持ちを忘れることなく持ち続けたいものです。次のパウロの言葉が印象に残ります。「主イエスご自身が、『受けるよりは与える方が、幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私(パウロ)はいつも身をもって示してきました」(使徒20:35)。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜21/5月号より

 

 

 



『春を待つこころ』

司祭 加藤鐵男

 

 四旬節の共同回心式も済んで、皆さん一様に清々しい気持ちで主の御復活を待ち望んでいたことと思います。それは、厳しい北海道の冬の寒さにも耐え、春に勢いよく芽を出す草花にも等しいこころもちだと察せられます。私たちは、いつの間にか、自分の中の誘いの堆積物で埋め尽くされた心が、重く感じられる時があります。閉ざされた覆いをいつの日か取り除いて春の陽光を待ちわび、その光に思いっきり照らされたいと考えるのではないでしょうか。すべてを明るみに出して、掛け値のない自分を神様に見てもらいたいと望むのではないでしょうか。それが、今の私たち一人ひとりだと思います。誘いに負けた自分に何度も何度も嫌悪し、自分は何て駄目な奴だと思いながらも、死ぬこともできず、ただ惰性で生きて来た私たちです。それでも神様は微笑みを浮かべ、しようのない奴だと諦めずに手を差し伸べてくださる有難さに頭を下げるより仕方がありません。

 このような神様の存在にいつもただただ有難うございますと感謝を述べる事しかできません。また、同じ事を繰り返すかもしれませんが、その時にはまた、許してくださいますかとお願いする事しかできません。もし、駄目だと言われたら、私たちの行くべき場所はありません。だから、あなただけが頼りなのです。あなたにすがりたいのです。

 私たちは、信じています。どんな時も私たちを見捨てず、どんな場合でも私たちを心にかけ、どんな罪深い私たちでも救ってくださることを、忘れることはありません。だから私たちは生きていけます。従って行けます。こんな気持ちにさせたのはあなたです。私たちはついて行きます。しつこいと言われようともついて行きます。こんな私たちのような人間が一人でも現われ、あなたについていくことを願っています。そのために日々努力をしたいと思っています。きっと雪の下で春を演じようと花を咲かせることを待っている草花のように、大勢の罪人が回心して明るい日射しの中で思いっきり手足を伸ばせる時を待っていることだろうと思います。

「誰が主の山に上り、誰がその聖所に立つのか。汚れのない手と清い心を持つ人。魂を空しいものに向けず、偽りの誓いをしないひと」(詩篇24:3-4)。

この御言葉に寄り添いたい人のように。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜21/4月号より

 

 

 



 『主の呼びかけ』

司祭 加藤鐵男

 

 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた、で始まるサムエル記三章は、三度の主の呼びかけに、「お話しください。僕は聞いております」と素直にこたえるところから始まっています。やがて、成長したサムエルは、人々から信頼され主の預言者であることを認められました。

 私たち司祭の召命は、直接的に主の言葉を聞くことはなくとも、間接的にあるいは、内的に主の言葉を聞いていたことが、かつてあって、それに応えた結果なのかもしれません。今年で司祭になって十三年が過ぎます。まだまだペイペイの域を出ませんが、人間が古いものですから、信徒の皆さんには誤解を与えているとするなら申し訳ありません。

 真駒内教会に住んで協力司祭として、私と共に司牧してくださっておられる近藤神父様は、今年の三月で叙階のダイヤモンド祝を迎えます。六十年の長きに渡って、人生の三分の二を教会にお捧げしてくださっています。頭が下がります。新田におられる谷内神父様とは同期の叙階だそうです。お二人の司牧において、どれだけの人々が救われたことでしょうか。きっとお二人ともユニークな神父様方ですから、人々への司牧も大変ユニークな仕方だったのではないかと想像されます。これからも、健康には気を付けて、司牧現場で働いて欲しいと願っています。

 そして、今年は数年ぶりで神学生が誕生します。しかも教区が養成する初めての外国人であり、ベトナム人の神学生です。かつて技能実習生として、日本で数年働き、ある程度日本の状況も理解し、二つの修道会にも体験入会をし、霊性も学び、司祭職も単なる憧れだけではなく、日本の教会のために働く覚悟を持っています。日本では、これから益々ベトナム人の受け入れを進め、将来は現在の数倍になる事だって考えられます。その時の重要な存在になるにちがいありません。

 主の呼びかけに、様々な人たちが応えられたように、これからは益々国際的になって、色々な国の人たちが日本の教会の中で働く時代が、やって来るに違いありません。教皇フランシスコが呼びかけておられるように、平和は全ての国の人々が手と手とを取り合って交わりを持つことによって実現していきます。早くその平和が実現しますように祈りましよう。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜21/3月号より

 

 

 



『場﨑洋神父逝く』

司祭 加藤鐵男

 

 一月十二日にシェナのベルナルディーノ場﨑洋神父が帰天されました。享年六十二歳でした。

 永年教区の事務局長としての任務を果たされ、八面六臂の大活躍をされていました。事務局長・小教区の主任司祭・幼稚園の園長と、一つとして手を抜くことなく、全力投球でこなし、すべてを御自分で立派に果たされていました。

 しかし、自分の体に意識もせずに鞭を打ち続ける無理が、彼の肉体を蝕み脊柱管狭窄症の発症に至りました。

 二〇〇七年私が、助祭の時の夏休みに司教館に帰郷すると夏休みの二ケ月間、主任をされていた江別教会の主日に毎回集会祭儀をするようにと命じられました。「助祭の帰って来るのを待っていた」と言われて、神父は厚別の整形外科病院で手術を受けました。

 しかし、手術の結果は、自分の予想したものではなかったようで、その後も手探り状態の療養生活が続きました。九州へ出かけての療養生活も経験され、その十字架と共に歩く苦しい生活を強いられました。

 場﨑洋神父は、「ジョーク集」を出版するほどのジョークの旨い人でした。仕事で遅くなって夕食に間に合わないことがありました。当時、司教館に詰めてお世話をしてくださっていたシスターが、遅い夕食を準備してくださり、ご飯じゃわんが空になったのを察して、「お代わりはいかがですか」とたずねると「タリタ・クム」という言葉が帰って来たと、翌朝、楽しそうに語ってくれていたシスターも天国にいかれました。

 絵が、とても上手な神父でした。イタリアの修道院で習ってきたイコンは素晴らしいものでした。司祭大会でノートに私を書いてくれたペン画は、私の宝物になってしまいました。

 また、場﨑洋神父は、記憶力の優れた人でした。食事の席で、例えば有珠山噴火の話が出た場合でも、瞬時にあれは、○○年○○月○○日だったと出てくる人でした。あの時、教区で義援金を集めて洞爺町の○○町長に届けたと直ちに話が続く人でした。

 そのように、常に人々のその場を和ませる得意技の持ち主だった場﨑洋神父が、逝ってしまいました。

私にとって、二〇二一年一月十二日は、記憶に残る日になってしまいました。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜21/2月号より

 

 

 



『ある教会の早朝ミサ』

 司祭 加藤鐵男

 

 ある教会は、週日、毎朝七時からミサを行っています。夏には、太陽がすでに高くなっており、天気の日は暖かく、窓を開け放った御聖堂はとても気持ちの良いものです。しかし、十二月ともなれば、ミサ開始時刻になって、やっと空が明るくなってきます。もちろん暖房も入っておりますが、教会に来るまでの道のりを考えると、「どうぞ、ミサに与ってください」とはいえません。

ところが、ここ二ケ月位のあいだに状況が少し変ってきました。元々、固定メンバーの参列者だったのですが、徐々にそのメンバーが増えてきだしたのです。自宅から四十分かけて歩いて来られる方、お友達を誘って来られる方、ご夫婦で来られる方、決まった曜日だけ来られる方、未信者なのに週のほとんど参列している方等、その理由は様々ですが熱心にミサに与り祈っておられます。

 全国的にもそうですが北海道は、コロナウイルスの感染者が増えており、誰が感染しても不思議ではない状況です。先行きの見通せない中で不安を抱え、皆が何とかこの状況を乗り越えたいとの想いを教会に来られて祈っているのではないかと考えられます。

そして、不要不急の外出自粛を求められている中で、皆は神様と向き合う時間を与えられたことに気付き感謝の念を込めてお祈りに来られているのかもしれません。幸いなことに全国の教会で、まだ、ミサに与ってコロナウイルスに感染したケースはないそうです。

 日頃私たちは、神様からたくさんのお恵みを頂いて暮らしています。

しかし、そんな事は普段考えたこともないくらい、当たり前だとも思わなく忘れて生きています。しかし、毎日大勢の方々が感染し、亡くなられる方々が増えることによって、何気ない日常の生活の有難さに改めて気付かされたのが、私たちの今日の状況ではないでしょうか。

 こんな時だからこそ、次の聖書の言葉が、私たちの心に浸みわたります。「俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。敬虔のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役に立ちますが、敬虔は、今と来るべき時の命を約束するので、すべてに有益だからです」(一テモテ4:7-8)。

いつも神様に心を向けていられる私たちでありますように。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜21/1月号より

  


『ある葬儀に寄せて』

司祭 加藤鐵男

 

 その人は、風のようにあっという間に逝ってしまいました。心臓の持病を抱えていました。亡くなるひと月前には親戚の者に、「私はまだまだ、四、五年は生きれそうだ」と話しておられたそうですが、病院に運ばれて、数日で亡くなられました。

 その彼女とは、コロナもあって、二年以上も顔を合わせていませんでした。亡くなる一週間前に、ふと、元気でいるだろうかと思い出していました。亡くなる日の教会でのミサの三十分前に彼女の親しい人から、「今、彼女が危ない状態です」と聞かされて驚いていましたが、ミサの始まる十分前に、「今、亡くなられました」との電話連絡が入りましたとその人から告げられました。ミサの中で、彼女の永遠の安息を願い、参列者と共に祈りを捧げました。

 彼女の住まいは、当時としては珍しい温泉の大浴場がセールスポイントの分譲マンションでした。私にも、「ぜひ一度入りにいらしてください」と何度もお声をかけていただきながら、とうとう行けなかったのが、今にして思えば残念です。

 彼女からは、三年前に、全てのことは教会の親しい人たちに依頼し、「私が亡くなった時の準備をすべてしてあります」と伝えられていましたが、正にその通りでした。

 葬儀の始まる前には「これを流してほしい」と「私の葬儀のときに」・『聖堂で大好きなポップスを』というタイトルで御自分の気に入っていた映画音楽、聖歌、インストルメンタルの彼女らしさが伝わる楽曲が、お手のもののパソコンを駆使してCDに入れられてあって、それが聖堂に流されました。

 葬儀は、質素に行うこと、そして司式司祭の希望まで伝えられていたことを知りました。本来なら協力司祭の司式である筈が、その司祭が病気になられて、私が司式することになったのも偶然ではなく彼女の希望がうちかったのかもしれません。

 そんな彼女でしたから、流行語にもなっている「断捨離」という物からの執着心を失くして、部屋をすっきりと片付けていたのではないかと思いました。私たちも見習うべき人生のしまい方だったと思います。まだ、まだと思っていても、その時がいつ来るかは、私たちには分かりません。その時が不意に襲って来ても、いつでもその準備ができていることが、必要なことを、彼女の生き様を想い浮かべて、しみじみと感じ取られました。

 最近の私は、パソコンのキーを打ち乍ら音楽を流していることが多いのですが、次は何の音楽ににしようかと思い浮かべているときに、亡くなる二日前のこと、そういえば彼女から何枚かのCDを頂戴していたことを思い出し、タイトルをろくに見もせずに一枚を取り出し、聴きながらキーを打っていました。それが、葬儀の時に、「これを聖堂で」と彼女が以来していたあのCDだったのは偶然ではないかもしれません。

 「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。」(エフェソ二章十節)。 

 今、彼女は白石のカトリックの共同墓地で、帰天された二人の司教、大勢の司祭、信徒の方々と共に眠っておられます。今頃は、親しくなって、あちらで御ミサをやって私達のために祈ってくださっているに違いありません。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜21/12月号より