場﨑洋神父さまを偲んで    お説教10話 黙想会1話 

 



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復活の主日 2016年3月27日

ヨハネによる福音書20章1~9節

司式 場﨑 洋 神父様 (於:山鼻教会)

 

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません。」そこで、ペトロともう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子のほうが、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼らは中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

 

 

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説教(文)  主の復活

場﨑 洋 神父様 (於:山鼻教会)

 

 昨日の復活徹夜祭の典礼は「光の祭儀」からはじまりました。この世の闇に、罪の世界にキリストの光が輝きました。歴史を通して神は語り続けられ、それがイエス・キリストの死と復活によって成就したのです。わたしたちは救いの歴史を伝える神のことばを「みことばの典礼」を通して耳を傾けました。そして今日、新しい人となった洗礼志願者と共に「洗礼と堅信」にあずかり、新たな心でキリストの光に照らされ、

「感謝の典礼」に与っています。

 福音書は「空の墓」の出来事を伝えています。冒頭に、週のはじめの明け方早くと記されています。婦人たちは準備しておいた香料を持って墓に向かいました。これはどうしてなのでしょうか。実は金曜日の午後3時にイエスは十字架上で亡くなられます。その夕方の日没から翌日の日没まで安息日に入りますから、人々は労働をしてはなりません。午後3時から安息日の始まる数時間、アリマタヤのヨゼフという議員がピラトに願いでてイエスの遺体を十字架から降ろし埋葬しました。彼らは急いでイエスを十字架から降ろして墓に納めました。土曜日の日没を迎えると安息日は終わりますが、日も暮れて埋葬作業はできませんので翌朝まで待たなければなりませんでした。それで週の始めの明け方早く、婦人たちは香料を用意して、墓へ急いだのです。ところが行ってみると墓穴を塞いでいた石が取りのけてあったのです。中に入ってみるとイエスの遺体がありません。婦人たちは途方に暮れてしまいました。するとそこに光り輝く衣を着た二人の人が現れました。婦人たちは恐れて地に顔を伏せました。二人は言いました「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活なさったのだ」。そして思い起こさせるように言いました。「ガリラヤにいた頃、お話になったことを思い起こしなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」。二人の輝く人は婦人たちをさとしています。「なぜ生きておられる方を死者の中に見いだすのか・・・」と。

 イエスのみことばは死ではありません。イエスは死を語る方ではありません。イエスのことばは生かし生きているものです。イエスは何度も弟子たちにご自身が罪人の手に渡され、十字架に付けられ、三日目に復活することを告げていましたが、なかなかそれについて悟ることができませんでした。弟子たちはイエスと最後の晩餐に与って、ゲッセマネの園に赴いたとき、すべての闇がイエスを覆い尽くしました。弟子たち(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)は、この世の権力、武力、圧力、弾圧、恐怖に怖気づいて、逃げてしまうのです。御父のみ旨を実行していくことは何と難しいことでしょう。「友のためにいのちを捨てる。これ以上の愛はない」、とイエスは最後の晩餐で弟子たちに告げたはずです。

 イエスの復活とは何を意味していたのでしょうか。それは死者が蘇生して復活することではありません。復活とはイエスによる愛の証しです。イエスを通して語られた福音がまさに死と復活によって成就するのです。イエスが十字架の死に至るまで従順であったという証しによって御父が栄光をお示しになるのです。それは罪人のために捧げられた無償の愛の証しです。だからこそ、御父はイエスを通して復活の姿でお示しになられるのです。

 旧約においてエジプトで奴隷状態であったイスラエル人は、神によって解放されました。新約において、イエスがこの世の闇と死の世界から、罪びとを解放し、永遠の救い、永遠の生命へ導かれました。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとって愚かなものですが、わたしたち救われるものには神の力です。ユダヤ人やギリシア人は死の中にしるしや知恵を求めますが、しかしわたしたちは十字架を通してイエスをとおして示された御父の愛を証しします」。死はわたしたちにとって、あってはならないもの、遠ざけるもの、目をそらしてしまうもの、つまずきであったり、恐れであったりします。出来れば死はないほうがよいのです。

 弟子たちにとって十字架におけるイエスの死は敗北と思ったに違いありません。イエスが宣べ伝えた福音は無意味だったのではないか?イエスの行った不思議なわざは、幻想にすぎなかったのではないか?弟子たちはただ絶望と嘆きのうちに苦悶するばかりでした。

 わたしたちが信じている御父の姿は、イエスが示されたへりくだりの愛の中に凝縮されています。イエスの復活は肉体が元に戻るという蘇生ではありません。イエスの復活はコンピューター・グラフィックで表現できる画像や動画ではありません。イエスの復活を巧みな哲学や神学で説明することはできません。わたしたちの体は生物的にすべてを説明することができません。体は再生しながら、老い、病となって、死を迎えます・・・・・・この流れがわたしたち人間が体験する法則かもしれませんが、わたしたちの体は生物学的な側面だけではありません。わたしたちには朽ちない霊的な体をも備わっていることを忘れてはなりません。

 この世でわたしたちを襲う、死に向かう思いがあります。

 挫折、空しさ、儚さ、嘆き、絶望、悲観、厭世、虚無、失望、

・・・・、すべては死に向かう誘惑のなかにさらされています。しかし、死を越える計り知れない力も備えられて います。

 希望、愛、信仰、平和、平安、慰め、癒し、和解、柔和、寛容、誠実、親切、

・・・・わたしたちは絶えず立ち上がろうとする後者の言葉に希望と慰めを見出し続けます。いのちは死の中にのみこまれたのでしょうか。死はすべての終わりでしょうか。

 復活によってわたしたちにもたらされたものは福音の成就です。「わたしを見た者は父を見たのだ」。「一粒の麦が地に落ちて死なないならば、そのまま残る。しかし死ねば多くの実を結ぶ」。「わたしは復活であり、いのである。わたしを信じるものは死んでもいきる」。「主は生きておられる」・・・・・。イエスの復活によって、いのちが死に勝利したことです。

 「死は勝利にのみこまれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか」(Ⅰコリント15・54~55)。イエスはまさに死に勝利したのです。死に対して抵抗したのではなく、死を甘んじてうけとめて死に勝利したのです。それこそ、御父に従順であった御子イエス・キリストのいさおしです。死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあったところからわたしたちを解放し、根源的な救いにあずからせてくださいました(ヘブライ2・15)。 

 復活はキリストだけのものではなくすべての人々の救いのための初穂となりました。キリストは普遍的存在です。主はいつもわたしたちと共に生きておられます。マタイ福音書の最後にこう述べられます。「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」(28・20)。「死者の中から復活したキリストはもはや死ぬことはない」(ロマ6・9)。

 

 



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四旬節第4主日 2016年3月6日

ルカによる福音書15章1~3、11~32節

司式 場﨑 洋 神父様 (於:山鼻教会) 

 

 〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。

 「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父の所に行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 

 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。

『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会するために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 

 

 

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説教(文)  四旬節第4主日

場﨑 洋 神父様 (於:山鼻教会)  

ルカ福音書の15章には3つの憐れみのたとえがでてきます。ひとつは迷子になった羊を探しにでる羊飼いのたとえ、ふたつめは銀貨をなくした女のたとえ、そして三つめが今日の放蕩息子のたとえです。

 放蕩息子のたとえはイエスのたとえ話の中で一番長く、御父の憐れみを一番深く表現されている箇所です。この放蕩息子のたとえはいろいろな角度から黙想することができます。弟息子と兄息子が御父に対しとっている態度と、それに応える慈しみと憐れみを注ぐ御父の姿です。弟息子は父の家にいるというのに本当の幸せに気づかず違った価値観に憧れて家をでていきました。それは自分が受けるべき財産をお金に換えて旅に出てしまったということです。彼は金を使って自分の幸福を求めていったのです。しかし、弟息子はお金を使い尽くしてしまうと、友達もいなくなり、食べるものに困り果てました。しまいに飢饉に見舞われてしまいます。彼はイナゴ豆で腹を満たそうと豚飼いのところに身を寄せたのですが、イナゴ豆さえも食べることができませんでした。聖書の世界で豚は汚らわしい動物です。彼は異邦人以下のものになってしまったということです。彼は人生のどん底で自分の罪深さを悔やんで回心するのです。「わたしはお父様に対しても天のお父様に対しても罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。このようにして彼は父のもとに帰ることを決心するのです。聖書では悔い改めることを「回心」と言います。方向転換すること、御父に背を向けていた自分が御父に向かって歩き出していくことをギリシャ語で「メタノイア」(回心)と言い、主に立ち返るという意味です。御父は回心するものをいつもいつくしみの心をもって待っています。罪びとが主に立ち返る者を拒みません。父は回心して戻ってくる息子を見ると、憐れに思い(スプラングニゾマイ=ギリシャ語の原文の動詞、意味は「はらわたが煮えくり返る」です)、走り寄り、首を抱き、接吻するのです。息子は父親に言いました。「わたしはお父様に対しても、天のお父様に対しても罪を犯しました。息子の資格はありません。あなたの雇い人の一人にしてください」。彼は自分の罪に責任を担い、赦してもらう条件として、息子を放棄し、雇い人になることを覚悟するのです。しかし、父は何も言わず無償の愛、憐れみをもって息子を迎えるのです。彼に履き物を履かせ、指輪をはめさせます。この行為は息子の資格を再び与えたという証しです。それだけではありません。父は僕たちを集めて仔牛をほふって喜びの宴会を開くのです。罪びとが神に立ち返ることは、天の国で大きな喜びなのです。この御父の姿が、いつくしみであり、憐れみなのです。イエスの十字架は無償の愛です。御父は絶えずこの食卓に罪人を招き入れたいのです。息子は回心によって御父と息子の関係をとり戻 したのです。これが回心です。わたしたちと御父の関係の回復には回心が不可欠なのです。

 弟が帰ってきて、父が宴会を催すと、兄は怒って、家に入ろうとはしません。そこで父は兄をなだめます。父の語ることばは、御父の豊かないつくしみと憐れみです。「お前のものは私のものだ。あの息子はいなくなったのに見つかり、死んでいたのに生き返ったのだ。共に喜び祝うのは当たり前ではないか・・・・」。主は絶えず罪人の回心を待ち続け、共に喜び祝いたい方なのです。

 

 



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四旬節黙想会 2016年3月6日

場﨑 洋 神父 (於:山鼻教会) 

 

 



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灰の水曜日 2016年2月10日  

マタイによる福音書6章1~6節、16~18節

司式 場﨑  洋   神父様 (於:山鼻教会)

 

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 

 

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年間第5主日 2016年2月7日 

ルカによる福音書5章1~11節

司式 場﨑  洋   神父様 (於:山鼻教会) 

 

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない、今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 

 

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説教(文) 年間第5主日

                                                                 場﨑 洋 神父(於:山鼻教会)


 パウロはタルソスで生まれ、天幕職人の子供でした。彼はユダヤ人でありながらもローマの市民権をもっていました。使徒言行に記されていますが、パウロは最初、ファイサイ派の律法学士で、キリスト教徒を迫害するものでした。ステファノの殺害のときにも居合わせました。しかし、幻の中でイエスの声を聞いて目が見えなくなってしまいます。神はすぐにアナニアを召し出されパウロのもとに遣わして目からウロコを取り除きました。彼は回心したのです。キリストを宣べ伝えるものとなったのです。

 回心したあとパウロはキリスト共同体に入っていきますが、彼がキリスト者を迫害するものだったので、共同体から警戒されました。その仲介に入ったのがバルナバでした。バルナバはパウロが回心した経緯について説明することによってキリスト共同体に受け入れられました。パウロは共同体の中で人々がイエスについて語り合っていることに驚きました。それが今日の箇所ですこの手紙の内容は紀元前50年前後に書かれたものですから、それよりもっと前のことになります。パウロは実にあなたがたに伝えたい福音、生活の拠り所としている救いのみ言葉について、自分も「受けたもの」だと言っているのです。「受けたもの」だということが大切なのです。今までになかったことを受けたというのです(聞かされたのです)。

 ・・・・・キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこ とです。ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人に現れたことです。500人以上 の兄弟たちに同時に現れました。そして今、月足らずのわたしのような者にも 現れてくださったのです。このようにしてパウロはキリストを宣べ伝える者と なっていったのです。

 今日の福音ではガリラヤ湖での漁が語られています。ペトロは夜通し苦労して網を降ろしましたが、何もとれませんでした。しかしイエスの言葉に促されて網を降ろすと、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったのです。彼らの二そうの舟は魚でいっぱいになり、沈みそうになりました。ペトロはこのしるしを見て「主よ、わたしたから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。しかしイエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師にしよう」と言われました。彼らはすべてを捨ててイエスに従いました。

 人間をとる漁師とは何でしょうか。それは人々の救いのために弟子たちを召し出すということです。わたしたちは何のためにこの世に召されてきたのでしょうか。ガリラヤ湖(ゲネサレト湖)は淡水の湖です。魚の一部分はヨルダン川に流れます。しかし流れれば流れるほど塩の海である死海に向かいます。海抜マイナス400メートルという低いところです。イエスは網が破れるほどに人間を救いたいのです。海の底から人々を救いたいのです。

 救いとは何でしょうか。わたしたちは魚のよう、神様の愛のなかで生きると同じです。第一朗読イザヤ書ではイザヤの召し出しが語られています。

   ・・・・そのとき、わたしは主の御声を聞いた。 「 誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」・・・

 わたしたちはイエスに捕えられているのです。捕えられているからキリストの愛を証しすることができるのです。捕えられているということは私たちがキリストの網にかかっているということです。網に上げられる方向へ歩めばいいのです。わたしたちはすでにキリストのものなのです。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と信仰を証しするのです。

 マザー・テレサは一日、2回、聖体拝領(イエス)を頂きます。一回はミサの中で、もう一つはスラム街にいる貧しい人の中にいるイエスを拝領するのです。マザーの聖体拝領はそこで一つになるのです。わたしたちの日常生活でもイエスを見出し、イエスを拝領しましょう。喜びのうちにイエスをわたしたちの中に迎え入れていきましょう。

 

付録

 2月5日、日本のカトリック教会においてキリストを証しした日本26聖人殉教の日を迎えました。そのなかで3人の勇気ある少年についてお話しします。

3人の勇気ある少年2月5日は日本二十六聖人殉教者の日です。1549年、フランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリストのみことばが芽を吹き出していくなか、厳しい弾圧が起こりました。最初の24名のキリシタンがとらえられ、京都の監獄に入れられました。そのなかには12さいのルドビコ茨木、13さいのアントニオ、15さいのトマス小崎のような少年たちもいたのです。1597年1月3日、とらえられたキリシタンたちは京都で左耳たぶをそがれ、長崎までの見せしめの旅を強いられました。道中、ふたりのキリシタン青年が「わたしも一行に加えてください」と役人に申し立て、あわせて26人となりました。

 トマス小崎は広島の三原に着いたとき、母親にあてて手紙を書きました。「母上さま、神さまのおめぐみに助けられながら、この手紙を書きます。わたしは長崎で十字架   につけられます。どうかお願いです。ご心配なさらないでください。天国で母上のお越しをお待ち  しております。母上さま、死がせまったとき、神父さまがいらっしゃらなくとも、 心から罪を悔い改 め、いのってください。イエスさまは救いを与えてくださいます」。

 いたいけなルドビコ 茨木を見た 長崎奉行所 の役人が 声をかけました。「信仰を捨てなさい。そうすればわたしたちの家に引き取り、武士にしてあげよう」。するとルドビコは、「わたしは神さまに背くことはできません」ときっぱりと断ったのです。

 アントニオの父は息子に言いました。「 おまえはまだまだ 若いじゃないか、大きくなってから殉教してもおそくはないんだぞ」。けれどもアントニオは毅然とした態度で言いました。「 神さ まにいのちをささげるのに、年をとってからというのは問題ではありません。あの罪のない幼子たちも、生まれてまもなく、キリストさまのために殺された ではありませんか 」。

 2月5日、長崎の西坂の丘に26の十字架が立てられました。京都を出発して1ケ月以上もたち、つかれきっていたにもかかわらず、26人のキリシタンたちは自分の札がかかげられている十字架へ走り寄り、しっかりと抱きしめたのでした。ふたりずつ26組に分かれた役人がいっせいに槍で胸をつきさしました。無残にも見せしめとして殉教者の遺体は10月まで十字架上にさらされていたと言われます。

 それから265年後の1862年6月8日、教皇ピオ9世によって彼らは聖人の位に上げられたのです。

     (「イエスのまなざし」~福音がてらす子どもたちのあゆみ~場﨑洋)より 

 

 

 



 

 

 

 

 

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年間第4主日 2016年1月31日 

ルカによる福音書4章21~30節

司式 場﨑  洋   神父様 (於:山鼻教会) 

 

 〔そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた〕イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないでシドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 

 

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説教(文)年間第4主日

場﨑 洋 神父様 (於:山鼻教会) 

 

 第一朗読、エレミヤ書ではエレミヤの召命ついて書かれています。エレミヤと同じようにわたしたちのいのちも母の胎内で宿る前から神の御手の中にあります。主はわたしたちと共にいて、わたしたちを導き出してくださいます。エレミアは紀元前7世紀、南ユダ国の腐敗を改めるように呼びかけましたが、民衆から批難されてしまいます。

 今日の福音書はイエスが故郷ナザレに帰られたときの記述です。イエスがお育ちになったナザレですが、人々はイエスの中に働いている御父のみわざに気づきません。イエスはあえて旧約時代のエリシャとエリアをとりあげて、神が預言者を異邦の地にも遣わしたことを告げています。しかし、人々はイエスに対して憤慨し、町から追い出し、崖まで追い込んで突き落そうとしました。人々の心はイエスに対する妬み、恨み、苛立ちで煮えたぎっています。

 第二朗読、コリントの第一の手紙はエフェソで書かれました。パウロはマケドニアの信徒をたずねようと考えていましたが、コリントにいる信徒たちがもめていたので、手紙をしたためました。手紙の1章10~12節を見てみますと、こう書かれています。

 ・・・さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです」。

 パウロがコリントの教会へしたためた手紙は「信仰によって一つに結ばれること」という願いでした。 今日の箇所は アガペ による 愛の讃歌です。 愛と言っても 聖書のなかで 使われている 愛はいろいろな形があります。

 旧約聖書では「アハバ」があります。選びの愛と訳することができます。愛の基本です。愛の動きには選びがなければなりません。この人を愛するか、この人をとるか、誰に心を開くかという選びが大切です。

 「ヘン」は、一般に言う、貧しい人に対しての愛です。可愛そうだと思って手を差し伸べたりすることです。しかし、それは一過性 のものに 過ぎません。

 「ヘセド」は人間関係のなかで持続する誠実な愛です。一回限りではなく、いつまでも 持続する愛の働きを意味します。友人関係の繋 がりがそうです。

 「セダケ」はもっと強くなります。なぜならば、これは誓いに基づく愛だからです。聖書では「正義」と訳していますが、もともとは誓い、約束、契約に基づくものです。たとえば、結婚のときに誓う言葉があります。「私たちは、夫婦として、順境の時も、逆境の時も、病気の時も、健康の時も、愛と誠実を尽くすことを誓います」。司祭も司祭叙階式で「主の御助けによって誓います」と言います。

 誓うと言うことは、とても大切なのです。誓うということは約束を守るということです。社会生活を営み中でも契約というものは欠かせません。人間は誓いを破ってしまう傾向にあります。聖書の中の誓いは、人間同士だけではなく神に対して誓うことを大切にします。人間は約束を破りますが神は約束を破ることをしません。一度誓ったからには、どんなことがあろうと、その誓いに誠実さがなければなりません。この誓いによって、自分で責任をとり、果たすべき義務を担うことになります。ですから友人関係における誠実さ以上のものが誓いに基づく愛のなかに含まれています。

 今日はパウロの手紙でも有名な愛の讃歌と言われる箇所です。ギリシャ世界には3つの愛の形があります。「エロス」と「フィレオ」と「アガペ」です。「エロス」は自己中心的な愛(エゴ)をあらわします。「フィレオ」は友情の愛です(アメリカの都市フィラデルフィアはこの語が起源)。ギリシャ語で書かれている新約聖書に初めて「アガペ」の愛が書かれました。パウロはアガペの愛について最も偉大な賜物であると言っています。「アガペ」は他者のために捧げる愛です。愛は知識でも、哲学でも、神学でも、理論でもありません。精神レベルよりも優れたもの、霊的レベルの最高の愛の賜物なのです。どんなに美しいことばで語っても、あるいは素晴らしい知識をもっていても、愛が無ければ鳴るドラに過ぎません。無に等しいのです。 どんなに素晴らしい偉業を果たし、山を動かすほどの完全な信仰をもっていると宣言したとしても、全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、自分を死に引き渡そうとしても、本当の愛がなければ何の益にもならないのです。

 愛は忍耐強いです。愛は情け深いです。いつくしみと憐れみです。愛は寛容なのです。愛は妬んだり、自慢したり、高ぶりません。キリストは自らへりくだって低くされました。愛は礼を失せず、道徳的無礼を嫌います。自分の利益だけを求めるものではありません。愛はイライラして人に当ったり、恨みません。愛は正義を喜び、真実を喜び、すべてを信じ、すべてを望みます。草木は枯れるが神のことばは決して滅びません。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは愛なのです。

 自分がいかなる愛をもって行っているか、この手紙の「愛」のところに自分の名前(わたし)を入れてみてください。「わたし」は忍耐強い、「わたし」は情け深い、「わたし」は妬まない、「わたし」は自慢しません。・・・なんだかそれらしい人物ではないのでつっかえてしまいます。そして今度は「愛」のところにキリストを入れて朗読してください。「キリスト」は忍耐強い、「キリスト」は情け深い、「キリスト」は妬まない。「キリスト」は自慢しません。・・・・。そうです。これですと合点、納得がいきます。でも、自分であったならば何と恥知らずの者と思えてなりません。

 「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3章12~13)。やはり、謙虚になって、寛容を身につけなくてはなりません。そうすることによって神の愛を知ることができるものと信じます。わたしたちは魂の底から救われたいのです。救われ方を知らないと、間違った方向へ迷いでてしまいます。

 わたしたちは救われたいために、安らぎを得たいために愛するのです。神のみ旨を行うことが、わたしたちのすべてであるという真実です。人生は計り知れなく謎です。けれども計り知れない神の愛に導かれているという真実を知っています。

 

 



 

 

 

 

 

 

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年間第2主日 2016年1月17日 

ヨハネによる福音書2章1~11節

司式 場﨑 洋 神父様 (於:山鼻教会) 

 

 〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい 」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは 知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 

 

 

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説教(文) カナの婚礼

場﨑 洋 神父様(於:山鼻教会) 

 

 今日はナザレの北にあるカナの婚礼での奇跡です。この奇跡はイエスが行った最初の奇跡です。ヨハネ福音書だけが伝えています。カナは小さな村です。言うまでもなくユダヤ人にとって結婚式は大きな祝い事です。

 今日の福音の冒頭で「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた 」と述べています。恐らく、マリアの親戚の結婚式かもしれません。マリアが全体の流れの中でイエスと祝宴の仲介をしているようです。福音書は「イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」と言っています。イエス「も」、弟子たち「も」の「も」が、特別の親しさを伝えています。弟子の中にカナ出身のナタナエル(バルトロマイ)がいましたが、詳細の関係は分かりません。母マリアは、ぶどう酒がなくなったことを察知して、「ぶどう酒がなくなりました」とイエスに知らせました。美しいマリアの配慮です。ここで思い起こすことは弟子たちの酒好きです。ルカ福音書ではこう記されています。「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。』」(ルカ5・33~34)。恐らく、弟子たちはお酒好きだったと思います。ちょっと気が緩むと、必要以上に吞んでしまったのかもしれません。だからぶどう酒が尽き果てたのではないでしょうか。推測はここまでにしましょう。

 イエスはあらたまった態度で母に答えます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時は来ていません」。しかし、母マリアは召使いたちに「この人が何か言いつけたら、その言うとおりにしなさい」と言われました。マリアは何を願っていたのでしょうか。息子イエスが弟子たちにお金を与えて、酒を買い足しに行かせようとしたのでしょうか。でも宴は夜です。店は閉店です。ぶどう酒はありません。召使いは言われた通りにしました。何のためらいもなくイエスの言われたとおりに、6つの水がめに水をいっぱい入れたのです(1つのかめの容量は1000リットル)。イエスは「それをくんで、宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と言いました。世話役は味見をしたのです。そして花婿にこう言ったのです。「だれでも始めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と。

 イエスが行ったこの「奇跡」、「しるし」は、イエスの神の国の到来を預言します。イエスのみことばは始めも終わりも普遍です。一貫として御父の愛を示す上等のぶどう酒なのです。聖書は婚宴の花婿と花嫁の関係を示します。旧約では「イスラエル」を神の花嫁とし、新約では「教会」をイエスの花嫁としています。また「始め」と「終わり」の関係では「最初のアダム」と「最後のアダム」(イエス)になり、「しるし」で説明すれば。「最初のしるし」(カナの奇跡)と「最後のしるし」(イエスの死と復活)で相似関係にあります。第一朗読を見てもそうです。「主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。花婿が花嫁を喜びとするように」(イザヤ62・4,5 )。第二朗読のコリントの手紙では、神から与えられた賜物にはいろいろあることを教え、すべて同じ霊によって結ばれ、働いているということ述べています。結婚の役割も同じです。今日の福音の風景を見渡すと、祝う人、祝われる人、招かれる人、世話役、配慮する人、仕える人・・互いにどこかで補われて、補完し合っています。ほんとうに喜びの宴になるためには、誰かの犠牲の中で成り立っているということを学ばねばなりません。他の人々の幸せを願わないで、自分だけの幸せを求める人には本当の幸せはありません。キリストはみことばです。みことばはぶどうの木です。みことばであるキリストは、十字架上(ぶどうの木)で血(ぶどう酒=カナのぶどう酒=十字架の血)を流して御父の愛を貫徹されました。十字架はぶどうの木なのです。御父のいつくしみと憐れみに満ちた、上等のぶどう酒が実るのです。婚宴は最初から終わりまで上等なぶどう酒で酔いしれたのです(日本ではこれを「おもてなし」と言うのでしょうね?)。

 婚宴の席に招かれた弟子たちは、かなりの大酒飲みだったに違いありません。恐らくイエスが奇跡を起こしたことも知らなかったでしょう。知っていたのは母マリアと召使いたちだけです。いや、ヨハネはこの福音書を書きましたから、後で聞いたことでしょう。わたしたちも、信仰という、伴侶がいます。わたしたちの信じるイエスがいつも上等のぶどう酒を用意してくださっています。イエスのみことばが、わたしの花嫁、わたしの花婿でありますように。  

 

 



 

主の公現 2016年1月3日 

マタイによる福音書2章1~12節

司式 場﨑 洋 神父様 (於:山鼻教会) 

 

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

 彼らは言った。

 「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

 『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん

 小さいものではない。 お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者

 となるからである。』」

 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止った。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 

 

 

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説教(文) 主の公現

場﨑 洋 神父於:山鼻教会) 

 

 東方の博士は救い主の星を見て、旅立ちました。彼らが3人であることは聖書に記されていませんが、救い主のために持参した贈り物が「没薬」「黄金」「乳香」の3つと記されていることにより、博士は3人と言われるようになりました。彼らが救い主が生まれた場所として立ち寄ったところが宮殿にいたヘロデ王でした。救い主の誕生ですから、宮殿にお生まれになったと思い込んだことは自然のことでしょう。ヘロデ王は博士たちに「見つけたら、教えてくれ、わたしも拝みにいくから」と言って送り出しました。博士たちは幼な子を拝んだあと、夢のなかで「ヘロデのところへ戻るな」とお告げを受けたので「別の道」を通って帰っていきました。この「別の道」というのは新しい生き方を示しています。博士たちは占星術の学者とか魔術師とか、天文学者とか言われます。要するに彼らは闇夜に救い主の星を見つけたことから、旅を決意しました。彼らはヘロデ王と謁見しますが、まことの救い主を捜し当てました。そして、拝んで、贈り物を捧げ、その後、「別の道」を通って帰ったのです。博士たちは東方の異教の民です。ある聖書学者によれば博士たちは改宗して「別の道」(新しい道)を歩んで行ったと解釈します。

 この物語をわたしたちと照らし合わせてみましょう。わたしたちには救い主の星、まことの道をもっています。天を見上げてそれを求め続けることもできます。しかし、その星のことも忘れてこの世のものに心奪われてしまうことが多いです。しまいに神様のための持って行く贈り物も忘れてしまいます。神様のための贈り物、それは憐み、慈しみ、平安、柔和、謙遜の心です。人々への平和です。

 わたしたちも自分が歩むべき道を示してくださる「救い主の星」をもう一度確認しましょう。この道でいいのか、本当にわたしたちはまことに信仰者なのか、与えられた旅の中で何度も確認していきましょう。

 今日は「主の公現祭」です。ラテン語では「エピファニア・ドミニ」と言って「主の栄光が公に現された」という意味を持ちます。この世の栄光は 富や財産、地位です。しかし神の栄光は秘められた計画のなかにあります。キリスト教は啓示宗教です。啓示とは、旧約においては預言者を通して神のことばが告げられたことです。そして新約において人間となったイエスによって御父が啓示されたのです。啓示は覆いかぶされて、絶えず秘められた神のわざがあります。時が満ちると栄光をあらわします。

   「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。

         この計画は、キリスト以前の時代には 人の子らに知らさ

         れていませんでしたが、 今や霊 によって、 キリスト の聖

         なる使徒たちや預言者たちに掲示されました」。(エフェソ3・2~6)

 今の時代にも主はいろいろな形でわたしたちに語り掛けているのです。  

 

 



主の降誕日中のミサ 2015年12月25日 

ヨハネによる福音書1章1~18節         

司式  場﨑 洋 神父様(於:山鼻教会) 

 

 初めに言があった。 言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、 初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

   その光は、まことの光で、 世に来てすべて人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

   言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 

 

 

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待降節第4主日 2015年12月20日

 ルカによる福音書 1章39~45節

 

司式 場﨑 洋 神父様(於:山鼻教会) 

 

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

そして、ザカリアの家に入ってエリサべトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサべトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 

 

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主日ミサ 説教 

 場﨑 洋 神父様  (於 山鼻教会) 

 

 昨日、若い夫婦が教会にきました。お腹の中に新しい命が宿っていました。妊娠六か月で、来年の4月が出産予定です。

 何と素晴らしいことでしょうか。三人で祝福の会話が始まりました。

「どんな具合ですか?胎児は動いていますか?」

「はい、ときどき動いています」。

「男の人は分かりませんけど、どんなふうに動いていますか?」。

「泡のようにブクブクと言っているようです・・・・」。

「ブクブク・・・???」

 男性には決して分からないことです。いのちは本当に不思議です。いのちはわたしからのものではなく、神様からの授かりものです。祝福されたいのちの営みです。

 第一朗読、ミカの預言は、到来する救い主はイスラエル(わたしたち)にとって平和であると言います。第二朗読のヘブライ人への手紙の中では、救い主の到来は神のみ旨を果たすためであると語っています。「ご覧ください。わたしは来ました」「神よ、御心を行うために」「わたしは来ました。御心を行うために」。「御心に基づいてキリストの体が捧げられる・・・・」。救い主キリストは、御父の御旨を果たすためにこの世に来られたのです。それはすべての人々に祝福を贈るため、すべての人々の救いのためです。

 ルカ福音はマリアのエリザベト訪問を伝えています。妊婦が互いに祝福し合うことは本当に美しいことです。この祈りはアヴェ・マリアの祈りの中で祈られている祈りです。いのちは互いに祝福し、祝福され、神の霊に満たされます。いのちが宿るということは計り知れない神のみわざです。わたしたちはこのいのちに招かれ、このいのちに生かされます。聖書では祝福のことを「ベラカー」と言います。人は神様からの祝福を願い、人を祝福することもできます。神様は天地を創造されて「良し」とされ、

すべての人に祝福を注ぐのです。

 この世界はどのような目的で創造されたのでしょう。それは人間にとって最も大切なこと、わたしがわたしであるという存在価値を知るためです。文明や知能が進歩したという次元ではありません。「人間はどこまで愛されているか」、「どこまで愛することができるか」という存在価値です。万物は神様から「良し」とされて祝福をいただいています。神様がわたしたちに絶えず祝福を贈ってくださっているように、わたしたちも隣人に祝福を贈り続ける存在でありたいです。わたしたちには悲しみがあります。痛みがあります。思い通りにいかないときもあります。しかし、神様は腕の中にわたしたちを温かく包み、憐れみと慈しみのうちに祝福を注いでくださいます。

 わたしたちは常日頃「モッタイナイ」と言う言葉を使います。環境保護活動でノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさんは日本語の「モッタイナイ」を好んで使いました。あの人にこのケーキをやるのは「モッタイナイ」、チョコレートをやるのは「モッタイナイ」と言うでしょう。しかし、神様には「モッタイナイ」がないのです。神様は愛です。絶えず祝福を贈る方です。「モッタイナイ」は「かたじけない」「恐れ多い」「身に受ける恩恵に対して、感謝の念でいっぱいである」とも表現できます。わたしたちは「モッタイナイ」がない、神様の慈しみと憐れみに触れていきましょう。そして日々の生活を通して祝福が注がれることを願いましょう。主は来られます。いのちの源である御父をお示しになられた神の子イエス・キリストの誕生を心からお祝いしたいです。

 

 



待降節第1主日 2015年11月29日

ルカによる福音書 21章25~28節、34~36節   

司式 場﨑 洋 神父様 (於:山鼻教会) 

 

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。太陽と月と星に徴が現れる。 地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うであろう。

天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。 あなたがたの解放の時が近いからだ。 放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。 

 

 

 

 

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