ブログ (2020年1月~12月 )


『異文化を共に生きる』

 司祭 加藤鐵男

 

 十月からベトナム人の三十六歳の神学生候補者と円山教会で一緒に生活をしています。私が神学生養成担当者の一人であるのと他の養成担当者の教会に空き部屋が無いことがその理由でした。

 昨年の五月に私が、円山教会に住むことになった時に前任者が賄いさんを雇い入れていなかったので、私もそれを踏襲していました。従って、二人で住むことになっても、食事は自分たちで作らねばなりませんでした。彼が、始めて来た時に、そのことをどうしたらよいかお互いに話し合ました。彼は、「自分たちでつくりましょう、頑張りましょう」と言ってくれたので、主に彼が作り、週に一度の割合くらいで私が作ることになりました。

 彼が来てどんなベトナム料理を、食べさせてくれるのだろうかと楽しみでした。彼が、ここに来るまでひと月ほど司教館に住んでいましたが、そのときに美味しい「生春巻き」を振る舞ってくれたという話を小耳にはさんでいたので、期待は膨らんでいました。しかし、未だに「生春巻き」は食卓に上がってこない。彼が家庭で食べていたような料理が並ぶので、これが普段食べていた、「ベトナム料理なのか」と尋ねたところ、彼は笑って「国際料理です」という。

 ある朝、テレビ番組を見ながら食事をしていた時えびを塩ゆでにしてレタスなどの野菜にのせる料理が紹介されていた。その晩、立派な大ぶりの青い子を腹に抱えたエビのゆでたのとレタスのサラダが食卓に並んだ。食べると塩気がなく何となく生臭い。そして、その大ぶりなえびを見て悪い予感がした。それは、私がある人から頂いていた刺身用の冷凍えびだった。作ってしまったものに文句を言っても仕方がない。が「これは解凍して刺身にして食べるはずだった」ことを彼に告げた。彼は大声で笑った。「外国人だから仕方がないですね。」と。これには、二の句が告げなかった。お互いの異文化の中で暮らすことは、このようなことは、日常茶飯事であることは覚悟していたが、早速のできごとだった。

「一切れの乾いたパンしかなくとも平穏であるのは、いけにえの肉で家を満たして争うことにまさる」(箴言17:1)。この箴言の御言葉をかみしめながら、お互いが、理解し合いながら、生きることは何と大変な事なのかを、知らしめてくれた出来事でした。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/12月号より

 



『今年の山仕舞』

司祭 加藤 鐵男

 

 九月の下旬に手稲山に登りました。自分の中での本格的登山は、おそらく二年ぶりくらいでした。平和の滝登山口コースからで、 往路は三時間、復路は二時間の山登りでした、山登りは、「行こう」と思ったなら七割は成功だと言われます。その山に登りたいなら、所要時間を調べ、コースを確認し、持ち物を用意し、体調を整えるなど準備を怠りなく計画するからです。あとは神様次第です。

 さて当日は薄曇り気温も山登りには最適で、旗日だったので登山者も多くいざという時には心強い絶好の条件が整えられた日でした。今年の春決意した教会から歩いて円山を登り帰って来ると丁度二時間のハイキングコースが、体力造りに役立ちました。途中の登山道に熟した、いま、落ちたばかりのコクワの実を拾い口に入れた所、甘ずっぱい初物の味は格別でした。幸先の良さに気を良くして、足は快調に運びました。大きな岩がごろごろした「がれ場」もゆっくりであれば何とか大丈夫との思いで進むことができました。後から来た若い人たちには、どんどん抜かれましたが、気にせず挨拶を交わして、一歩一歩と休みながらでも足を進めました。やっと「がれ場」を抜け通常の登山道に達するとテレビ局のアンテナ群が林立する山頂はもう直ぐです。二十人ほどの人たちが、くつろぎ食事をし、周りの景色の話など思い思いに、体の疲れなど忘れたかのように楽しんでいました。食事のあと草を布団代わりに昼寝です。気持ちよく四十分も寝ていたでしょうか、「こんな所で寝ている人がいる」と言う声に目覚めました。すっきりと疲れも取れて帰りの体力増強に快適な気分でした。これからは、寒くなり自分の中では、これが本格的登山での今年の最後の山登りになるだろうと思いました。

 なぜ、肉体的にも辛い思いをして山に登るのか、それは後の快適さと精神を鍛え上げてくれるからだと思います。ロマ書五章三から四節に次のような句があります。「苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生み出すことを知っているからです」。私たちキリスト者は、どんなことにも耐えられるように、キリストの弟子としての自覚を保ちながら、日々での生活を大事にして従う者でありますように願いたいものです。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/11月号より

 



 『今年の神学生合宿』

司祭 加藤 鐵男

 

 今年も神学生合宿の時期がやってきました。養成担当司祭として、また、神学生時代から参加していますので、かれこれ十八回は参加したことになります。現在神学生は一人です。参加司祭は二人の養成担当司祭と司教様、三人の司祭、途中から参加の一人と総勢八名の神学生合宿となりました。

 東京教区の神学生の実家が営む屈斜路湖畔のペンションで一泊、もちろんご両親も信者なので、翌日は丸太小屋の食堂で皆で御ミサに与りました。その日は、対岸の藻琴山に登ることになりました。良い天気でしたが、気温が高く汗をかきかき、やっとの思いで一時間ほどで山頂に着きました。あいにく雲が立ち込めていて屈斜路湖は見えませんでしたが、久しぶりの登山に身も心も晴れやかでした。前日、観光した私を除いて他の人々は、摩周湖まで足を延ばして観光し、その後は、美味しい弟子屈ラーメンに皆満足でした。十勝までの道中では、オンネトーの湖を観光し、有名な螺湾ぶき自生地を見学、一路十勝川温泉へと車を走らせました。

 翌日は、昨年十一月に献堂式を迎えたばかりの新しい帯広教会で御ミサに与りました。信徒の方々二十名ほどと一緒に神への賛美を捧げました。祭壇の後ろ側上部の、広々とした十勝平野の様子が描かれた雄大なステンドグラスは、御ミサに与る人々に神様が創造された豊かな自然の息吹に包まれて厳かな気持ちにさせていただきました。昼食は清水町の有名な蕎麦屋で美味しいお蕎麦を頂きました。無事に札幌に帰り有意義な神学生合宿となりました。

 「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」(ヨハネ15:16~17)。

 私たちは様々な所で召命を受けています。結婚も召命の一つです。神様から与えられた場で、しっかりとその務めを果たし、皆が愛し合いながら、互いのささやかな幸せを祈り続けることができる私たち一人ひとりでありますように願っています。すべての人に神様の恵みが注がれますように。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/10月号より

 



 『今年の夏模様』

司祭 加藤 鐵男

 

 今年の夏は、例年とは大分異なったものになってしまいました。お盆を迎えても故郷に里帰りする人たちが首都圏の自粛要請と自らの用心から少なくなっています。したがって、航空会社、鉄道も予約率が例年の半分であるという日もあるようです。外食産業も影響を受け、椅子席を減らしてソーシャルディスタンスをとっています。回転寿司も夕方からは、お持ち帰りのみにするという対応も取っていました。「Go・Toキャンペーン」も盛り上がりにかけ尻すぼみになりそうですし、まだまだ、コロナの影響からは当分抜け出せないようです。

 また、各地の夏の風物詩となっているイベントが軒並み中止となり、関連する市町村や関連会社への経済的な影響は計り知れません。楽しみにしていた人々は寂しいのと同時に心の穴がぽっかりと空いたような気持になっている方々が大勢いらっしゃると思います。

 教区、小教区も例外ではありません。春先から秋にかけての行事が全て中止となり、残念な思いにじくじたるものをかんじますが、これも致し方ないことなのでしょう。白石の合同墓参、札幌地区では信徒使徒職大会、平和祈願ミサなどが中止になり、季節の移り変わりが感じられないような今年の夏になってしまいました。 私たちは、先の見通せないこの状況の中で、何を拠り所として生きて行けばよいのか、自問自答を繰り返しています。やはり信仰を持つものとして、最後の最後に頼りにするのは、神様しかありません。私たちの最期の砦なのです。

 「主よ、敵から私を助け出してください。あなたのもとに私は逃れます。み旨を行うすべを教えてください。あなたは私の神です。あなたの恵み深い霊が平らな地で私をみちびいてくださいますように。」(詩篇143:9~10)。

 この詩編の言葉は、もちろんコロナを指しているわけではありませんが、主の基に一旦退き、神を仰ぎ見て、適切なご指導をいただきながら、希望と忍耐を併せ持って前をしっかりと向いて一歩一歩歩くことが、私たちの唯一の道なのではないかと思うのです。どうぞ、私たち一人ひとりに主の憐れみと愛を注いでくださるように願ってまいりましょう。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/9月号より

 



 『草刈○○』

司祭 加藤 鐵男

 

 ある禅宗のお坊さんが書かれた本を読んでいたところ修業は、体で覚えるもので、だから、続けることができるし、忘れることがないと書かれていました。ことばで覚えたことは、年月が経つと忘れてしまうものだとも書かれておりました。 

先日、二年ぶりに円山墓地の草刈りのご奉仕をしました。「昔取った杵柄」というやつで、神学生時代に先輩が付けてくれた「草刈正雄」ならぬ「草刈鐵男」の本領を発揮して、楽しみながら、そして、久しぶりで体を動かすことができて、一時間程で教会の墓地の草刈りは、終了しました。この日は、天候に恵まれ、二十一名の奉仕者のおかげで、円山墓地は綺麗に整えられました。

 その後、参加者は、晴れ晴れと充実した清廉な心を神様にお捧げしながら、この墓地に葬られているキノルド司教を初め、修道女や信徒の方々のためにお祈りを捧げました。主日や平日のミサでは、聖歌を歌うことは自粛していますが、野外であることと墓参であることを考慮して、この日ばかりは参加者が久方ぶりの聖歌を死者の方々にお捧げ出来ました。

 聖書の中に次のような言葉がありました。『私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に、教える人は教えに、勧める人は勧めに専念しなさい。分け与える人は惜しみなく分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。』(ロマ書十二章六―八節)

 私たちキリスト信者は、召命を受けた年月、信者歴、信仰の恵みも、それぞれに異なりますが、同じイエス・キリストの弟子として、歩み続けています。与えられた賜物は、個々人によって異なりますが、その与えられた賜物を、それぞれが、生かして神の手足となって、奉仕するように求められています。異なった賜物を持った人々が、それぞれの場所で、求められていることを奉仕することによって、そして、それが、一つにまとまったときに、大きな輪となって、花を咲かせる結果となるのです。 私たち一人一人の力は、微々たるものであっても、大輪の花を咲かすことができますように希望をもって、しっかりと前を向いて歩いて行きましょう。 

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/8月号より

   



 

『円山パート2』

司祭 加藤 鐵男

 

 今回の騒動で教会活動は休止に追い込まれて、信徒の皆さんは、歯がゆい思いと早く再開できないものか、しかし、感染も恐ろしいというジレンマの中で過ごされていることだろうと思います。私自身も皆さん以上に、それを感じながらも、先々の教会活動についてあれこれと思案している所です。

 こんな状況の中で、私の癒しとなっているのが円山散歩です。教会から円山公園の中を通り大師堂の前から登り始めて動物園コースを降りて来て、もと来た道に合流し、教会に戻ってきます。およそ、二時間の一周散歩コースです。ここを歩くのも二桁の回数になりました。暑い日には、汗だくで教会到着です。

 標高225メートルの低山ながら、楽しみ方もいろいろです。八十八体の石の観音像を一番から八十八番まで探しながら登るのもいいでしょうし、健康のために毎日登っている人もいるようです。

 円山原始林は、大正時代に国の天然記念物に指定されています。街場からこんな近くにあるにもかかわらず、多種類の小動物が生息し、私たち人間を楽しませ癒してくれます。ある日、動物園コースと大師堂との合流地点近くの樹齢数百年の大木の所でシマリスのつがいが、登山道を挟んで両側の太い枯れ木にそれぞれ乗っかって、遊んでいるのを見かけました。人慣れしているのでしょう。近づいてカメラを向けても平気で遊んでいました。小さな子が珍しそうに眺めている姿に思わずどっちも可愛いと声を出しそうになりました。

 また、別の日には、公園内の池でカルガモの母子に遭遇しました。六匹のカルガモの子の後をゆっくりと放物線を描きながら見守るようについて行くその母子のしぐさをただだまって見ているだけで、癒されました。池の淵で見ている母子づれも思わず「可愛い」と声をだして、スマホに収めていました。

 「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)とイエスは、おっしゃいます。私たちが、日々の生活の中で、様々の問題を抱えて苦しむ姿をよく見ていてくださる主イエスです。その大きな手で救ってくださる神の愛に触れて癒されることに無上の喜びをもって、困難試練に立ち向かっていく私たちでありますようにと願わずにはいられません。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/7月号より

   



『今年のゴールデンウィーク』

 

司祭 加藤鐵男

 

今年のゴールデンウィークは、政府の自粛要請のもとに、例年とは異なるものになりました。外出時も人ごみを避け、マスクを着用し、間隔を保ちながら行動するようにとのことでした。「ステイ・ホーム」もストレスがたまるとやはり外出したくなります。札幌は桜の開花時期と重なり、やはり目にしたいというのが、人情でしょう。昨年の五月に円山教会に住むようになってから、まだ、一度も円山公園に出かけていないことを思い立ち、桜見物に出かけることにしました。四月末日は、まだ、五分咲きでしたから、場所の確認と公園内部の散策のみで帰りました。ここから円山に登ることがわかったので翌日からは、二日連続で、教会から歩いて公園内を通り円山に登って、降りる時はもう一方の登山口へ降り、また、公園内を通り教会へ戻ると丁度二時間のコースでした。五月四日は、参道の桜が満開になるとの予報でした。

 この日も円山に登り山頂で一休みしてもう一方の登山口コースを下ろうとしたとき、愛らしい「こがら」のつがいが、目の前の枝にとまってさえずるではありませんか。その鳴き声に聞きほれ、愛らしい小さな姿に見惚れて、しばし足を止めて、いやしと神の創造の御業に感激した瞬間でした。徐々に緑を増す木々の中を通り抜け、公園内に戻り、神宮の参道を目指し鳥居をくぐり抜け、本殿を背にした、もう一方の参道では、それは見事な満開の桜並木に感動でした。中ほどまでくると四、五人の人がカメラを向けているので何かと目をこらすと杉の大木の根本の回りを、エゾリスのつがいが、戯れているところでした。しっぽを立てて動き回るその姿が、何とも可愛らしいのです。見ているだけで心を「ほっこり」させてくれます。このつがいたちの姿を思い出していると次の聖書の言葉が浮かんできました。 

 「互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために命を捨てることにこれ以上に大きな愛はない」(ヨハネ十五章十二、三節)。繁殖のためとはいえ、相手のために何の迷いも感じず全てを賭けて導き、従っているつがいたちの姿には、私たち人間と主イエス・キリストとの関係をも彷彿とさせるものがありました。私たちは、本当に全てを賭けて従っていたのでしょうか。動物たちから教えられたことです。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/6月号より

   



『神のはからい』

司祭 加藤鐵男

 

 「ペトロは聖霊に満たされていった。『この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、あなたがた家を建てる者に捨てられ隅の親石となった石』です。この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章8~12節) 

 この一文は、「病者の塗油」の際に読まれる聖書の箇所です。病が重くなって「病者の塗油」のために病室を訪れると不思議なことが起こることを何度も経験しました。名前を呼んで「これからお祈りをしますよ」と話しかけて、儀式書を読み上げているとたいがいの病人の表情が、急に明るくなって笑みがうかんでくるのです。それまで、無口だった人が、声が出なくとも何かを語りかけてきます。そして、自分はまだこんなに元気だということを付き添っている家族に、そして神父の私にも示そうとするのです。なかには、立ち上がって屈伸運動を何回も行ったり、嬉しそうに一生懸命に話しかけてくださる方もおられます。重篤の方が、奇跡的に持ち直し退院までして、その後、元気に過ごされた方もおられます。それまで、呼びかけにも答えず、ただ寝ているだけだった人が、急に話を始めたり、物事が理解できるようになったり、スマートフォン越しに遠くの身内と会話できることは不思議としか言いようがありません。私たち信者は、これを「神のはからい」と呼ぶのではないでしょうか。私たち人間には到底できないことを、目の当たりに見せてくださる神のわざには、素晴らしいとしか言いようがありません。人間にはもう無理だと諦めざるをえないような状況の中で、その人を奮い立たせ、神の働きが自分にこのようにあると家族や神父に表してくださることは、何とありがたく、神を信じる者の特権と言えるでしょう。

 間もなく人生の終焉を迎えることを悟った方が、神父を呼んで人生の中で抱えてきた負の塊を吐き出して、すっきりした掛け値なしの自分に戻って天国に迎え入れてもらいたいと願うことは何と素晴らしいことでしょう。どんな人にとっても、今までの罪を悔い改めて、新しい人間に生まれ変わって、笑顔でこの世とのお別れをしたいと思うのは当然ではないでしょうか。神は、そんな人たちに、いつでも手を広げて愛に溢れた深い懐に抱きかかえてくださる用意をしてくださっている方なのです。

 私たちは、どんな時でも、いかなる状況の中にあっても、光に向かって希望をもって生きていける勇気を与えてくださる神様に守られ導かれています。そのことを、決して忘れることなく、前へ向かって歩けることに感謝していきたいものです。 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/5月号より

 

  



『最後のお別れ』

司祭 加藤鐵男

 

 三月初めに葬儀があった。通夜に引き続き翌日の葬儀告別式ミサでの出棺は、遺族にとって帰天された方の姿を見る最後の場面となる。お一人おひとり、帰天された方に「今までありがとう」と心を込めて棺の中はきれいな花々で埋め尽くされ、この世でのお別れとなる。火葬場について最後の祈りが終わると棺は運ばれ、窯の中にいれられる。その扉が占める瞬間には、ただただ頭を下げるしかない。

 その当日、「火葬前の祈り」のために私は、火葬場に遺族到着の十五分前くらい前に着いた。待っているその間にも次から次へと棺が、到着して二ケ所のお別れの場でお祈りをしてから、窯へと運ばれていく。僅かの間にも五組の方々の棺が運ばれて来た。

 仏教の供物と紙花や骨箱、写真などを手にそれぞれの役目を担った二十数人の集団の棺は、黒地の布張りに鮮やかに貼り絵を施した豪華なものだった。

 次の集団は、お坊さんがいっしょの十人位の集団。棺は紫地に一面に透かし模様の入ったものだった。

 次は、二人の女性だけが棺に連れ立って入って来た。棺は、浮彫の彫刻が施された見事な素晴らしいものだった。  

 その次は、三十代のお母さんに小学五、六年生の男の子と二人だけが、棺についてきた。棺はシンプルなものだった。

 次は、杖をついた八十代の普段着のおじいちゃんがたった一人で、シンプルな棺に付き添って来た。 

 人間の一生は、それぞれにかけがえのない素晴らしいものだ。その人なりに一生懸命に自分の出来ることをやり遂げ、世の人々からは評価されることがなくとも、家族や交わりのあった人々にとって、あなたの存在のおかげで私は、生きる糧や希望をいただいたということがあり得るからだ。

「主よ、知らせてください、私の終わりを。私の日々の長さ、それがどれだけあるかを。私は知りたい、いかに私がはかないかを。」(詩篇39:5) 

 神からいただいた私たちのいのちは、どのようになるかを知る術がありません。尽きるその時まで生き続けなくてはなりません。だからこそ、その日まで、一日一日を大事に精一杯できることをやり遂げなくてはならないのです。その大事な一日を感謝で過ごすことができる私たちでありますように。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/4月号より

  



『思いがけない静修』

司祭 加藤鐵男

 

 今冬は降雪が少なく暖冬であると安心していたら、やっぱり来てしまいました。二月初旬の今季初めての大雪のことです。前夜に出かけた先で、一時間で十数センチの降雪があって驚き、戻って直ちに翌朝のことを考えて駐車をした前の部分と玄関先まで除雪をしてからベッドに入りました。ところが翌朝、目が覚めて驚いた。除雪のブルドーザーが入って除雪がしてあったが、車を止めてある前夜私が除雪した部分は残されており、車の横には高さ五十センチで幅が一メートルの雪の列が十メートルにわたってできているではないか。これでは、人力で行う除雪に時間がかかって、朝七時のミサには間に合わないので、連絡を取ってミサは休みにさせていただいた。ぼつぼつ、除雪を始めようとしていたら、隣の幼稚園の先生方も出勤して来ました。朝礼を済ませて、除雪を行うとの連絡をいただいたので、それを待って一緒に除雪を行いました。前夜からの疲れと今朝の疲れとで、もう一つの教会のミサ、夜の修道院のミサも休ませていただいて、今日は一日、神学生時代を思い出して、「そうだ、静修にしよう」と早々連絡を入れて、その日は、ゆっくりと神様と向き合う日と決めました。

 この円山教会に住むようになって、半年位以上が過ぎました。まだ、前年の踏襲の期間ですが、今後のこと、自分の司牧生活を反省し、至らない自分を戒め、信徒の信仰生活を支えるには、どうしたらよいのかなどを祈りながら思い巡らしていました。

 パウロのコリントの信徒への手紙の中に次のような一文があります。

 「左右の手に持った義の武器によって、栄誉を受けるときも、侮辱を受けるときも、不評を買うときも、好評を博するときにも、そうしているのです。私たちは欺いているようでいて、真実であり、人には知られていないようでいて、よく知られて、死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています」(Ⅱコリント6:7-10)

 神の大いなる愛に包まれて生かされている私たちですが、日々の生活の中で、これを自覚し、常に意識して、信仰生活を送る私たちでありたいものです。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/3月号より

  



『ささやかな正月休み』

司祭 加藤鐵男

 

人が、家族や親しい人たちと温泉旅館やホテルで年末年始を過ごしているころ、私は、教会の守るべき祝日のミサの司式をしています。
 私の正月休みは、数年前までは、三ヶ日が過ぎ旅館やホテルが暇になる頃をめがけて、週日にお気に入りの温泉宿に、二泊三日のプチ湯治に出かけていましたが、閉館になってしまってからは、それも出来なくなりました。
 年末年始には、お蔭様で気を使ってくださる方々からの御馳走が届き、私の好きなカニや数の子、鮭やハタハタの飯寿司、たこの刺身や黒豆の煮物など贅沢な食事で嬉しいひと時を過ごしていました。 
 やっと一日の休みが取れて、日帰りの温泉が、今年の私の正月休みとなりました。祝日の日帰り温泉は駐車場が満杯になるほど賑わっておりました。内湯でのんびりと過ごした後で、少しぬるめの露天風呂にゆっくりと浸かっていました。目の前にある垂直に近くたちはだかるようにどんと構えている崖に何か動いているものが目に留まりました。雌のエゾ鹿が、日当たりのよい所に顔を出している草や木の皮を、のんびりと食しているところでした。上に上ったり、下に降りてきたりと気ままに、美味しい草や樹皮を見つけながら食事を楽しんでいるようでした。これが、神様からのお正月のお年玉になりました。今まで数回はこの日帰り温泉に来ていましたが、鹿にお目にかかったのは、今回が初めてでした。やはり、北海道はまだまだ自然豊かな土地であり、熊にはお目にかかりたくはないですが、野生の動物を近くで見られることは嬉しいことであり、年明けから何か良いことが起こる前兆のような気がしてささやかな一日だけの正月休みは、終わりました。

 「御旨を行うすべてを教えてください。あなたは私の神です。あなたの恵み深い霊が平らな地で、私を導いてくださいますように。」(詩篇143・10)私たちは、神の御旨の中で生かされています。そして、いつも正しく清らかに、謙遜、謙虚に生きたいものだと望んでいます。ところが、それとは裏腹に、いろいろな誘いに負けて、神の御旨どころか、相当に脇道にそれてしまっている自分の姿に愕然としてしまいます。今年こそはと元日に決心を固めて実行しようと奮闘しますが、すぐに挫折を味わいます。そんなみじめな姿を何度味わったことでしょうか。
 そんな私の生きざまに、いつも優しく声をかけてくださるのはイエス・キリストです。「いいんだよ。わかっているから」と、やさしいその声に気を取り直して、どうぞよろしくお願い致しますと頭を下げている私です。今年も、もしかしたら、これの繰り返しかもしれません。それでも下向き加減な私に対して、苦笑しながらも手招きしてくださるイエス・キリストに従って行こうと思っています。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/2月号より

  



『救い主の誕生』

司祭 加藤鐵男

 

 現代は、ものが在り余り欲しいものが手に入りやすい時代になりましたが、その代わりに失っていくものもあります。AIの技術の進歩は、ある程度のデーターがあれば、数十年前に亡くなった歌手が3Dの画面に新しいデザインの衣装を身に着け新曲が聞ける時代になりました。その一方で、デジタル機器の障害によるものではないかと思いますが、耳に音声が届いているにも関わらず、その声の認識が出来ず、何度も聞き返さなくてはならずに、仕事から離れなくてはならない仕儀に陥る若い方々がおられます。

 スマホやパソコンが無くては、日常の生活に支障をきたすほどですが、流れてくる情報の信ぴょう性を鵜呑みにすることは、まだまだ判断が難しい若者などには事件に巻き込まれる可能性が隠されています。機器を通しての友達関係は、薄っぺらなコミュニケーションしか取れずに、実際の人間関係を難しくして、人との交わりが築けずに、悩みを抱える人間を増やすことにもなりかねません。

 このように、新しいものを手に入れたのに、重要なものを見失ったという事実を受け止めなければならないのです。

 そんな私たちに神様は、心と心を結ぶすばらしいプレゼントをくれました。神様は、救い主である御子イエス・キリストを人間の姿をとって、おとめマリアを通してこの世に誕生させてくださいました。悪の誘いに負けた人、病気で苦しんでいる人、災害で身内を亡くし悲しんでいる人、仕事につけずに貧しい人、人生を前向きに取り組めない人、などなど苦しみ悲しみや悩みにさいなまれている人々にいつも寄り添い、励まし、生きる力を与えてくれる「救い主」を私たちの間に誕生させてくださったのです。

 「重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから私の軛を負い私に学びなさい、そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく私の荷は軽いからである」(マタイ11:25-30)。

 いつも正しくありたいと願う私たちですが、決意とは裏腹に弱い私たちが顔をのぞかせ、ときには、愕然とすることもあります。しかし、そんな私たちに、「それでもいいんだよ。わたしのもとに来なさい」と優しい眼差しで手を差し伸べ待ってくれている神様がいます。その存在に感謝をしなければなりません。すべてを捨てて、従っていくのに何の躊躇がありましょう。喜んで自分を差し出しどうぞお使いくださいと委ねることに、何の違和感も生じることはありません。あなたのみ旨のままに。すべてを、おまかせの人生にすると悩み思い煩うこともなくなり、こんな楽な生き方はありません。なぜ、こんな難しい仕事と思い悩まなくとも、これはあなたが与えた仕事です。責任はすべてあなたにありますと開き直り、ただ前を向くだけの人生を生きるのみです。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/1月号より