ブログ (2019年1月~2019年12月 )


『初心に立ち帰れ』

司祭 加藤鐵男

 

 十一月の初めに十二年ぶりに卒業した「東京カトリック神学院」を訪ねてきました。後輩の神学生たちにお話をするためです。数年間東京と福岡の神学院が統合されて「日本カトリック神学院」として神学生の養成に当たってきましたが、この春から別の道を歩くことになり、元の名前の「東京カトリック神学院」としての再スタートになりました。

 院内の風情は、以前のままでした。空いた時間を使って草刈りをしたこと、前庭にうず高く積まれていた大木の切り株を一生懸命片付けたことなどが懐かしく思い出されました。ジャングルのように繁茂していた棕櫚の木の間引きをして、裏庭にリヤカーで運びました。旧校舎で使っていた大谷石がバラバラで放置されていて、業者に依頼して前庭を整備したときに、整然と積んでくれた石を活用して裏庭に花壇を作りました。綺麗になった前庭は、すぐに近くの関町教会のボーイスカウトの夏キャンプの格好の場所となりました。立ち木を移植したあとの穴を深く掘って生ごみの捨て場にしました。それが、また、復活していました。まるで思い出がパラパラ漫画のように、次から次へと浮かんできました

 私たちの学年は、高齢者が多いのが幸いしたのでしょうか、とても仲の良い学年でした。もちろん大変なこともあったと思いますが、そんなことは忘れてしまっています。

 後輩たちへのお話は、十一月ということで、「死者との交わり」とのテーマをいただきました。妻の死、司祭になってから見送った多くの人たちのお話をさせていただきました。拙い私の話に耳を傾けてくれた後輩たちに感謝です。翌日の感謝ミサで私の役割は終了しました。

 「子よ、私の教えを忘れず、私の戒めを心に保て。あなたに長寿と命の歳月が与えられ、平和が増し加わる。慈しみとまことがあなたを捨てることはない。それらを首に結び、心の板に記しておけ。あなたは神と人の前に、好意と良い成果を得る。」(箴言3:1-4)

 この箴言の言葉を、心にしっかりと治めながら、神学生時代を思い起こし、司祭に叙階された時のことを忘れずに、前を向いて歩いて行けたらと思います。

 皆さんのお祈りに支えられながら。感謝!

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/12月号より

 

 



『今年の同期会』

司祭 加藤鐵男

  

 今年の同期会は七人中四人が、参加して名古屋教区に集まり開催された。新幹線駅舎広場の時計台が集合場所であった。遠くは札幌で、近くは三重県からであった。当番教区司祭が司牧する押切教会で一休みして一日目の中津川温泉へ向けて彼の車で出発である。一時間半のドライブだったが、車中は昨年の同期会の話し、それぞれの近況や、神学校時代の話しなどが飛び出し、共通の話題に皆が十二年前に戻って、どの顔も日ごろの司牧などはすっかり忘れて、笑い声が絶えない車中は、楽しさ満開であった。

 一時間ほどで多治見の町に入り、国道から見えるワイン造りで有名な修道院を垣間見ながら中津川へまっしぐらである。日帰り温泉を併設しているホテルは、洒落た和風づくりの建物であった。すぐに風呂場へ急ぎ湯船に浸かるとつるつるする泉質の温泉がとても心地よかった。夕食は、八組ほどが入る和室の椅子掛けのテーブルの料理は、季節の物が並べられていた。刺身、揚げ物、みそだれで食べる焼肉、松茸の土瓶蒸しなどが出されてせっかくのダイエットが心配になるほどであった。

 二日目は、そこから車で十五分ほどの馬籠宿に行った。中山道の宿場跡に残された旅館などを中心に宿場町が再現されていた。ここが出生地の島崎藤村の記念館もあった。青春の頃に読み内容はすっかり忘れていたが『夜明け前』の舞台になったところである。峠の中腹にある結構な坂道でよくぞ残ったなという宿場跡を三十分ほど散策した。そのあと近くの妻籠宿まで足を延ばして多治見の修道院に行った。前に少しと後ろには、それの四倍ほどのぶどう畑がほどよく手入れされて広がっていた。そこから車で五分ほど走ると、禅宗の永保寺という名刹があり散歩コースの一つになっていた。鯉が泳ぐ池を中心にお寺の建物が囲んでいて趣のある風情であった。その晩は、元神学院院長の今はカテドラルの主任司祭と食事をともにし、翌朝はヨーロッパの大聖堂のような聖堂で朝ミサを共同司式した。

 詩篇に「誰が主の山に上り、誰がその場所に立つのか。汚れのない手と清い心を持つ人。魂を空しいものに向けず、偽りの誓いをしない人。」(詩篇24:3~4)という言葉があります。いつまでも司祭になった時の初心を忘れずに司祭職を全うしたいものです。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/11月号より 

 

 



『天使のうたごえ』

司祭 加藤鐵男

 

 今年の神学生合宿は、神学生が未だ行ったことがない道北稚内、利尻を訪ねることになった。神学生一人と後に合流した神父を含め総勢七人の参加になった。一日目は、日本海側オロロンラインを行き途中信徒の経営する牧場を訪ね、稚内に着いた。夕食後、有志で夜の市内観光に出かけた。ノシャップ岬で灯台の灯りにノスタルジアを感じ、山の上の公園では、開基百年記念塔に昇り霧に煙る市内の夜景を目に焼き付け、北方記念館では、樺太の歴史を垣間見てきました。「氷雪の門」では、真岡郵便局の自殺した九人の乙女像の前で思わず手を合わせてきました。

 二日目は日帰りで利尻島に渡った。元利尻教会を守ってくださったシスターの家でミサをさせていただいた。予定では低山ハイキングのはずが、あいにくの雨で島内一周のドライブに代わってしまった。

 最終日は、稚内教会でミサをさせていただきました。十一人の信徒も参列してくださいました。オルガン伴奏をしてくださった女性は、今年ご主人の転勤で新ひだか町に行かれましたが、月に二度ほど来て歌唱指導もしてくださっているそうです。入祭の聖歌を聞いて驚きました。教会の働き盛りの年代の女性が多いはずなのに、声量や響きが十一人のものではないのです。思わず目を閉じて聞きほれました。まるで天使の大群が天国で歌っているかのように聖堂内に響き渡り、その自信に満ちた歌い方は称賛に値するものでした。何と素晴らしいその歌声は、この教会の信仰の素晴らしさと一致するものであることを確信させてくださいました。

「ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。だから、不正な富について忠実でなければ、誰があなたがたに真実なものを任せるだろうか。」(ルカ十六章十・十一節)。このイエスの言葉は、この世で得られる富(出来事)に忠実な者だけが、神の国においてその報いが得られることを私たちに教えてくれています。

 誰かが見ていなくても、自分たちの成すべきことをしっかりとできる限りの最高の状態で行うこと、それが人に信用されることにつながります。そして、それを神さまはいつもしっかりと見ていてくださって記憶に留めていてくださいます。いつの日か、私たちが神の国に召された時、神さまは、膨大な日記帳からそれを見つけ出し、しかも、一つも見落とすことなく、この時はとても良かった。これは最高だった。あの時は、わたしも驚くほどに感激した。といちいち誉めてくださるに違いありません。この世で誰にも認められなくとも、私たちには、最後に最高のことばをかけてくださる方がいる幸せを知った恵みに感謝せずにはおられません。

 

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/10月号より 

 

 



『いつか行く山』 

司祭 加藤鐵男

 

 歳を取って体力が無くなる時がいつかは必ず人間にはやってくる。でも、まるっきり何もできないというわけではなく、若い時のように、まだ、体力が有り余っていた時のようにはいかないだけなのである。

 そんな時のためにといつかは登って見たい低山を幾つか残してある。長時間のかかる山は無理だが、でも、少しだけなら冒険もしてみたい。初めて見る景色も眺めてみたい。写真を見て脳裏に焼き付け、その時が来たなら行って見たいとわざわざ残しておいた私にとって、とっておきの山である。

 今年の夏休み初日そこに出かけることにした。山登りは、まず行きたいと思ったなら七割は成功すると言われる。なぜなら、行きたいと思ったなら、そこまでのアクセスを調べ、出発や帰りの時間を見極め、登山時間を考え、持ち物を検討し、一人暮らしなので万が一遭難したときにはどうしておけば良いかまでをも考える。それでも、不備な点が必ずやあるのであるが、登山の概要が頭に入っているので、ペース配分なども自然とできてくるというわけである。

 さて、今回は雨竜沼湿原へ行くことにした。札幌から一般道を走ること三時間、登山口の駐車場に到着である。管理小屋で登山届を出して出発だ。鉄製の吊り橋を二か所渡ると段々登りがきつくなる。低山といえどもやはり登りは大変である。つづらおりの登山道を一時間ほど登ると川のせせらぎが聞こえてきた。もう少しである。さらに三十分ほど登ると視界が開け、もうそこは湿原である。この日は快晴ではるか彼方の山まで見渡せ、木道が見えないほどに草丈は伸びてまるで草原であった。湿原は、すでに秋の気配を感じさせ花は、タチギボウシやエゾリンドウの紫系に覆われ、沼の中にはオゼコウホネが可憐な花を咲かせていた。木道を一周して満足の内に下山した。

 年齢を重ねたなら、「若いときのように思いのままにはいかない」(ヨハネ21-18)とあります。

 「あなたがたの神、主があなたがたに命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたがたは生き、幸せになり、あなたがたが所有する地で長く生きることができる」(申命記5-33)と言われています。そろそろ従順に、腰を低くして、謙遜に、「はい、主よ」と素直に言える私でありたいと切に願っています。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/9月号より 

 

 



『掘り出し物』

司祭 加藤鐵男   

 

 住んでいる所のすぐ近くに中古屋がある。引っ越して間もない頃に、他の用事で近くを通って店の存在に気づき、新生活に足りない物を探しに入ったのが始まりだった。その時には、破格の値段だったので二段の総桐整理箪笥を買ってきた。それから、十日に一遍くらいの間隔でこの店を覗きに行っている。

 二階造りの広いフロアーには所狭しと色々な物が並んでいる。自分の趣味に適う物があればとぐるぐる回っていると一時間はあっという間に過ぎてしまうこともある。偉人像の鋳造品や木彫りのだるま、水彩額や版画額、陶製人形などこれまで七点ほどの自分にとっての掘り出し物を見つけてきた。大体何百円単位から千円台の物である。四十年前に永年勤続の表彰にいただいた金杯や東京で知人からいただいた版画額など、その品の裏に書かれている文字には、持っていた方の人生が刻み込まれたに違いないことを伺わせてくれる物もある。

 会計場所には、「お家一軒まるごと片付けます」と書かれた看板があるので、亡くなった方のお家を整理していて出てきた品に違いないと思う。しかし、こんな破格の値段でと思うと何か申し訳ない気持ちが湧いてくる一方で、得をした気分でほほ笑んでいる自分もいて今日も掘り出し物が見つかったと喜んでいることも確かなのである。

 あと十年生きて死んだ後に、自分の荷物が整理される時を想像するとこんなどうしょうもないものばっかり揃えて何をやっていたのかとお叱りを受けることになるかもしれない。それでも、また、出かけてみたくなるのがこの中古屋さんなのである。

 聖書のなかの一節に、「地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:19-21)とあります。

 天に宝を積むことも忘れてはいませんが、まだ、この地上にも未練があって、その狭間にあって、日々せめぎ合いをしている自分に苦笑し乍らも生きている私です。

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/8月号より 

 

 



『目には目を、歯には歯を』

司祭 加藤鐵男   

 

 このタイトルの聖句は、私たちには馴染みの言葉です。害を与えられたら、それに相応する報復をすることのたとえとして用いられます。今から四千三百年まえにできたハムラビ法典にも、旧約聖書の出エジプト記(出21章24節)、マタイ5章38節にも出てきます。

 古代においては、村の誰かが他の村の人から怪我を負わされた場合に、村中のものが駆けつけて他の村の犯人を殺すようなことがまかり通っていました。それで、報復を抑えるために、同等の体の部位でしたら、許されるという法律が出来上がったのです。ですから、片目をつぶされたら、その犯人の同じ片目をつぶすということになっていきました。しかし、文字通りになされたかどうかは定かではないようです。

 やがて、体の同じ部位ではなくお金で解決するようになっていきました。現在

の賠償金に当たるものでしょう。

 しかし、イエスの考えは違いました。『あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい』(マタイ5章40節)と言いました。当時どんな貧しい人でも、下着は二枚は持っていたようですが、上着は、一枚しか持っていませんでした。パレスチナの砂漠では、昼間は炎天下の下で過ごし、夜間は冷え切った大地で過ごすことになり、上着は毛布にもなっていたわけですから、上着を取られるということは、命の保証が得られないことを示していました。

 したがって、『上着をも与えよ』というイエスの言葉は、その人が当然持っている権利をも放棄せよと迫っていることになります。キリスト者は、自分の権利をも放棄し、他の人々への奉仕に生きるようイエスは求めておられるのです。イエスが、人々のあがないのために十字架に付けられたように、私たちにもそれを望んでおられるのです。御父の限りないあわれみと大きな愛に包まれて生かされていることを、忘れてはなりません。

 今の世の中では、自分を中心にした考えで生きている人が多いように思えますが、他の人への思いやり、優しさ、寛容、柔和な姿勢で生きることを、私たちキリスト者は心掛けていきたいものです。私たちキリスト者が、人々に希望を与える者となれますように日々の生活の中で祈っていきたいものです。 

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/7月号より 

 

 



『新たな気持ちで』

司祭 加 藤 鐵 男 

 

 五月の初夏を思わせる温かな穏やかな日に、新しく住む場所の近辺を散歩できることは、不安よりも、むしろこれからの期待感を増幅させてくれるものでした。小学校の柵からは、すずらんが、住宅の庭からは、リラの良い香りが漂ってきました。外国人目当ての海鮮市場は数台の観光バスが停車して、札幌観光の一役を担っているようでした。

 郵便局はここにある、クリーニング店はここにあった、ガソリンスタンドはすぐ裏手の角にあった。歩いて五分に喫茶店があり、八分も歩けばスーパーマーケットがありました。これで、大丈夫生きていけると思いました。元来、何処でも寝ることのできる人間なので心配はしていませんが、環境の変化だけは学習しておかなくてはなりません。環境が変わることで良いこともあります。それは、気持ちを新たにしてスタートできることです。基本的に仕事は、何ら変わりませんが、これから親交を徐々に深めていく人たちと理解し合いながら、司牧を行うことは勝手が違う事の少々の不安と期待感がないまぜになっているものです。

 「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉がかわいていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ25章35-36)。

 また、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10章43-44)。 

 私は、これからもこの二つの聖句を肝に銘じながら、どこにあっても忘れないように日々努めることができるように、御父と御子と聖霊に新たな気持ちで願っていこうと思っています。 

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/6月号より 

 

 



『神が出合わせてくれた者』

司祭 加 藤 鐵 男 

 

 札幌教区は、大変嬉しいことに昨年に引き続き今年も司祭叙階式がありました。出身教会の人々や関わりを持っていた大勢の人々が出席くださって司祭叙階をお祝いしてくださいました。聖堂の最前列に昨年の助祭叙階式にも参列くださった私も顔見知りの方が、今年も座って祈ってくださっていました。東京のカテドラル所属のその方は、亡くなられたお友達の代理として二回も来てくださったのです。帯広出身で信仰を通しての友人が東京で今年叙階の司祭との関わりを持ち、心待ちにしていた助祭叙階式を前に帰天され、託されたその思いを胸に参列してくださっていました。

 私がその方と知り合ったのは、十数年前所沢教会の巡回教会である宮寺教会でした。百年前、被差別部落の中に建てられたその教会は、今でも畳敷きで皆座布団を敷いてお座りをしてミサに与ります。祭壇は、日本間に見られる卓袱台(ちゃぶだい)を使用していました。

 その方が、ミサに何度か来られているうちに、神学生である私に「実は、プロテスタントあるいはカトリックのどちらの教会へ行こうか迷っています。」と打ち明けられました。私は、「あなたの居心地の良い方を選んだらどうですか。」と答えました。そのことがあってから一年後、東京のカテドラルで偶然その方と再会し喜び合いました。そして、冒頭の叙階式での再再会へとつながっていったのです 

 聖書の中でイエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。」(マタイ七章七-八節)と私たちに呼び掛けておられます。私たちの人生の中では、いろいろなことがあります。時には、悩み、苦しみ、どうしていいのか分からない時もあります。そんな時に、自分の周りに話を聞いてくれる人がいることは、なんと素晴らしいことでしょうか。答えは得られなくともよいのです。話を聞いて、「あなたは、一人ではないのですよ。あなたの傍に私がいます」と、心配してくれる人がいることが大事なのです。御父と御子は、いつも傍にいて愛に満ちた眼差しを注いでくださっています。私も、そんな一人になれればと願いつつも、時には、そのようになれない自分に、反省の繰り返しをしています。 

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/5月号より 

 

 



『「家庭の祈り」によせて』

司祭 加 藤 鐵 男   

 札幌教区で、子ども・青年たちへの信仰の伝達を熟慮したうえで、「家庭での祈り」が大切であるとの典礼委員会での結論に、キャンペーンのパンフレットを作成し各教会に配布されました。その裏の片隅に、画家林竹次郎「朝の祈り」の絵画の一部が使われていました。

 この絵は北海道立近代美術館が所蔵し、その絵はがきは大人気になっているほどで、昔懐かしいちゃぶ台を囲んで家族が朝の祈りをしている場面を描いた作品です。朝の光が左手の窓から差し込み、聖書の上に手をおいて祈る少年は、下宿をさせていた男性をモデルにしていますが、本当は作者自身を描きたかったようです。

 画家林竹次郎は、宮城県に生まれ、仙台師範学校へ入学した在学中にキリスト教の洗礼を受けました。上京して、東京美術学校へ入学し、三年後に東京美術学校の特別課程を卒業すると、北海道師範学校の教諭になりました。二年後に退職し、札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)の教諭として二十八年間美術を教えました。一中の退職後には藤高等女学校で十四年間絵を教えました。旧制札幌一中の図画の教師をしている時の1905年に第一回文部省美術展に「朝の祈り」が入選しました。

 末っ子の息子の文雄は医者になり、東村山のハンセン病病棟に行くことを希望し、父は反対しましたが、文雄は反対を押し切ってそこへ行きました。幾度も文雄にお見合いを勧めその仕事から離れさせようと図りましたがことごとく失敗しました。やがて文雄が結婚すると、息子の仕事に理解を示して、鹿児島のハンセン病療養所にいた文雄の家に、妻こうと一緒に札幌から転居し、文雄の家を「楽園」と呼んで二年後に帰天するまで文雄と共にハンセン病患者を励まし、絵画の個展を開いて、売り上げ金をハンセン病患者に捧げました。

 この林家の「小さくされた者」への支援は、幼いころからの祈りの大切さを私たちに示している良き例だと思います。現代の家庭では、全員で食事を一緒にすること自体が、困難にもなってきていますが、まずはできることから始めることが大事だと思います。目覚めたらベットの上で、個人個人で神への感謝の祈りをすること、寝る前には同じようにベットでその日の全てのことを感謝しながら良き眠りに導いてくださいと祈ることをやってみては、如何でしょうか。

 人間は、さまざまな人との関わりの中で生かされていることを知っている私たちは、それらの全てに感謝を示すことは当然のことだと思います。「家庭での祈りが」家族の一人ひとりに根付くように、日々の五分間が、私たちにとってとても大切な時間となりますように。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/4月号より 

 

 



『絵画展「深井克美」展に寄せて』

司祭 加 藤 鐵 男 

 北海道立近代美術館で開催中の絵画展、「深井克美」展を見てきました。札幌の美術館に行くのは、しばらくぶりでした。私にとって初めて聞く名の画家の美術展だったので、「久しぶりに絵でも」という軽い気持ちで出かけたのでした。しかしどうでしょう、見ているうちに、その絵に引き込まれている私がいました。画歴はわずか十年で、若くして亡くなったという画家の生涯を知れば、少しは納得できそうにも思えましたが、彼のない面が表出しているであろう、それぞれの絵は、何とも不思議な世界でした。

 ところどころのコーナーに彼の生涯と絵に対するコメントや写真などが、展示されていました。その中に、私の司牧研修の徳田教会の写真があったので、なぜと思い近づいて説明を読んで見ると彼は、この教会で洗礼を受けていたのです。函館に生まれ、四歳で父親が結核で亡くなり、残された母親と兄と妹は、困窮の中にあって、致し方なく妹を養女に出し、母親と二人で東京中野区の母子寮で暮らすことになりました。父親の結核菌が幼い克美の体を蝕み脊椎カリエスを発症しました。近くにカトリック系の病院があり、貧しかった家庭でしたが、善き先生に巡り合い、回復をみました。そんな中で、洗礼に導かれ、近くの徳田教会でキリストの弟子となりました。しかし、精神の不安定の中での生活を余儀なくされ、所沢教会の神父に世話になり、画家を目指し、ついに展覧会に入賞し、画家として認められるようになっていきました。

 しかし、三十歳のとき、八階から投身自殺を図り帰らぬ人となりました。今から四十年前のことです。当時は、大罪を犯した人の葬儀は、できないというのが教会の立場でした。現在日本カトリック司教団は、「神のあわれみを必要としている故人と、慰めと励ましを必要としている遺族のために、心を込めて葬儀ミサや祈りを行うよう、教会共同体全体として変わろうとしています」と『いのちのまなざし』で述べています。幸いにも、関わってくださった神父の尽力により、彼と母の遺骨は、東京カテドラル・マリア大聖堂の納骨室に眠っています。

 私たちの上にも、寛容の精神と人をねぎらう心が豊かに育つことを願って、日々の信仰生活を送りたいものです。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/3月号より

 

 



『異文化に触れて』

司祭 加 藤 鐵 男  

 今年も高校生のフィリピン・エクスポージャーが、開催されました。山鼻教会からも男性と女性各一名ずつが参加しました。年が明けて二日から十日までセブ島にある福祉施設「イースターヴィレッジ」で、現地の子供たちとの交流を通して異文化を学ぶ良い機会になったことと思います。しばしば、親の主導で参加する方もいますが、終えて帰ってくると意外や意外、本人が「また、行きたい」と願う参加者がいるのもこのフィリピン・エクスポージャーの特徴だと思います。いまは、日本では中々体験できない鶏を参加者自らが潰して、その食料を大切に残さず食べたこともあります。豚の丸焼きに時間をかけてじっくりと焼き上げ、それを皆で頂戴して、いのちの大切さを学ぶプログラムもありました。最近は、時間の関係でそれもできないとの話も聞きました。しかし、その分現地の子供たちとの密接な時間が確保され、心と心のふれあいが、十分にとれて別れがつらく泣きながら日本に戻ってくる光景が見られるようです。

 十代の純粋な心は、何事にも敏感ですべてを吸収する柔軟性を持っています。こういう時こそ、大人になってはできない様々な良い体験をさせて、後々の豊かな心を持ち合わせた立派な人間となるべきその歩みを、今の私たち大人が、その支援をして、支える義務があると思うのです。今回の経験を今年限りで終わらせるのではなくて、続けて参加させて更なる交流を通して、深い絆となっていくなら送り出す方にも豊かな喜びが訪れるというものです。

 さて、山鼻教会に韓国人の神父が赴任して間もなく一年になろうとしています。この間、何度も韓国人の司祭、信徒が訪れてくださり。この方々と触れ合う良い機会になっています。今まで知らなかった韓国のカトリックの状況が少しずつ見えてきています。

 また、山鼻教会の保護の聖人が「幼きイエズスの聖テレジア」のご縁で「カルメル会」の神父が代わる代わる訪れてくださいます。ベトナム人の技能実習生や留学生が四、五人主日のミサに定期的に参列するようにもなってきています。降誕祭には、インドネシア人とフィリピン人の観光客各々二十人ほどの団体が夜半と日中のミサに参列していました。 

 同じ信仰を持つカトリックの信者として、すぐに触れ合いのできる素地が最初から出来上がっています。あとは、お互いが、胸襟を開いて、その一瞬一瞬を豊かなものにしていく努力、実践が大切です。言葉が通じなくとも、こちら側が受けいれる姿勢を見せることによって、僅かでも通じ合うものがあると思います。国際都市と宣言する札幌市民として世界共通の宗教カトリック教会の信者として、「すべての人を救おう」となされるイエス・キリストの思いを、私たちも異文化を通して、お互いを大切にする心と心を養う一年にできたらと思います。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/2月号より

 

 



 

『知ること』

司祭 加 藤 鐵 男 

 司祭の仕事は、それぞれの教会での司牧、つまり信徒との交わりを通して、共同体の円滑な運営を図ることが大きな役目です。そのほかに各司祭に与えられる委員会での担当司祭としての役割があります。

 私に与えられている委員会の一つである正義と平和協議会では、毎月の例会の中で学習会を行っています。先日、長年、札幌ジョックの協力者として働いてくださった方を招いて、そのお話を聞く学習会が開かれました。その中の話で、大事なことはまずは、「知ること」と「共に一緒に生きること」ですと言われていました。

 私には、もう一つ、教区での委員会ではありませんが、「札幌マック」という団体の理事長という肩書があります。本当に肩書だけの事しかしていませんが、スタッフとの分かち合いを毎月一回行っています。もう、それが七年近く続いています。彼らの壮絶な人生を聞くたびに、よくぞここまで這い上がってきた驚きと同時に感動を覚えます。前任者の司祭が遠方に転勤になって、軽い気持ちで引き受けた役目でしたが

依存症の方々のそれまでの人生やそこから抜け出したきっかけを聞くとそこに、かれらの言うハイヤーパワーの恵みが及んでいることを感じます。

 部外者にとって、大事なことは、まずは、そのことを知ること。そして少しずつ理解することに努めること。そのうえで、その方々に寄り添うこと。自分の時間を割いて、その方々のお話を聞くこと。そして交わりを持つこと。

 先日、札幌マックのクリスマス会に参加してきました。例年より多い方々が集まってくださいました。何十年もまえに克服した人々も集まって、その当時の自分に戻って、躊躇なく自分をさらけ出していました。

 教会共同体もそうありたいものです。

 

山鼻教会機関誌「おとずれ」❜19/1月号より