ブログ (2020年1月~ )


『ささやかな正月休み』

司祭 加藤鐵男

 

人が、家族や親しい人たちと温泉旅館やホテルで年末年始を過ごしているころ、私は、教会の守るべき祝日のミサの司式をしています。
 私の正月休みは、数年前までは、三ヶ日が過ぎ旅館やホテルが暇になる頃をめがけて、週日にお気に入りの温泉宿に、二泊三日のプチ湯治に出かけていましたが、閉館になってしまってからは、それも出来なくなりました。
 年末年始には、お蔭様で気を使ってくださる方々からの御馳走が届き、私の好きなカニや数の子、鮭やハタハタの飯寿司、たこの刺身や黒豆の煮物など贅沢な食事で嬉しいひと時を過ごしていました。 
 やっと一日の休みが取れて、日帰りの温泉が、今年の私の正月休みとなりました。祝日の日帰り温泉は駐車場が満杯になるほど賑わっておりました。内湯でのんびりと過ごした後で、少しぬるめの露天風呂にゆっくりと浸かっていました。目の前にある垂直に近くたちはだかるようにどんと構えている崖に何か動いているものが目に留まりました。雌のエゾ鹿が、日当たりのよい所に顔を出している草や木の皮を、のんびりと食しているところでした。上に上ったり、下に降りてきたりと気ままに、美味しい草や樹皮を見つけながら食事を楽しんでいるようでした。これが、神様からのお正月のお年玉になりました。今まで数回はこの日帰り温泉に来ていましたが、鹿にお目にかかったのは、今回が初めてでした。やはり、北海道はまだまだ自然豊かな土地であり、熊にはお目にかかりたくはないですが、野生の動物を近くで見られることは嬉しいことであり、年明けから何か良いことが起こる前兆のような気がしてささやかな一日だけの正月休みは、終わりました。

 「御旨を行うすべてを教えてください。あなたは私の神です。あなたの恵み深い霊が平らな地で、私を導いてくださいますように。」(詩篇143・10)私たちは、神の御旨の中で生かされています。そして、いつも正しく清らかに、謙遜、謙虚に生きたいものだと望んでいます。ところが、それとは裏腹に、いろいろな誘いに負けて、神の御旨どころか、相当に脇道にそれてしまっている自分の姿に愕然としてしまいます。今年こそはと元日に決心を固めて実行しようと奮闘しますが、すぐに挫折を味わいます。そんなみじめな姿を何度味わったことでしょうか。
 そんな私の生きざまに、いつも優しく声をかけてくださるのはイエス・キリストです。「いいんだよ。わかっているから」と、やさしいその声に気を取り直して、どうぞよろしくお願い致しますと頭を下げている私です。今年も、もしかしたら、これの繰り返しかもしれません。それでも下向き加減な私に対して、苦笑しながらも手招きしてくださるイエス・キリストに従って行こうと思っています。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/2月号より

  



『救い主の誕生』

司祭 加藤鐵男

 

 現代は、ものが在り余り欲しいものが手に入りやすい時代になりましたが、その代わりに失っていくものもあります。AIの技術の進歩は、ある程度のデーターがあれば、数十年前に亡くなった歌手が3Dの画面に新しいデザインの衣装を身に着け新曲が聞ける時代になりました。その一方で、デジタル機器の障害によるものではないかと思いますが、耳に音声が届いているにも関わらず、その声の認識が出来ず、何度も聞き返さなくてはならずに、仕事から離れなくてはならない仕儀に陥る若い方々がおられます。

 スマホやパソコンが無くては、日常の生活に支障をきたすほどですが、流れてくる情報の信ぴょう性を鵜呑みにすることは、まだまだ判断が難しい若者などには事件に巻き込まれる可能性が隠されています。機器を通しての友達関係は、薄っぺらなコミュニケーションしか取れずに、実際の人間関係を難しくして、人との交わりが築けずに、悩みを抱える人間を増やすことにもなりかねません。

 このように、新しいものを手に入れたのに、重要なものを見失ったという事実を受け止めなければならないのです。

 そんな私たちに神様は、心と心を結ぶすばらしいプレゼントをくれました。神様は、救い主である御子イエス・キリストを人間の姿をとって、おとめマリアを通してこの世に誕生させてくださいました。悪の誘いに負けた人、病気で苦しんでいる人、災害で身内を亡くし悲しんでいる人、仕事につけずに貧しい人、人生を前向きに取り組めない人、などなど苦しみ悲しみや悩みにさいなまれている人々にいつも寄り添い、励まし、生きる力を与えてくれる「救い主」を私たちの間に誕生させてくださったのです。

 「重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから私の軛を負い私に学びなさい、そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく私の荷は軽いからである」(マタイ11:25-30)。

 いつも正しくありたいと願う私たちですが、決意とは裏腹に弱い私たちが顔をのぞかせ、ときには、愕然とすることもあります。しかし、そんな私たちに、「それでもいいんだよ。わたしのもとに来なさい」と優しい眼差しで手を差し伸べ待ってくれている神様がいます。その存在に感謝をしなければなりません。すべてを捨てて、従っていくのに何の躊躇がありましょう。喜んで自分を差し出しどうぞお使いくださいと委ねることに、何の違和感も生じることはありません。あなたのみ旨のままに。すべてを、おまかせの人生にすると悩み思い煩うこともなくなり、こんな楽な生き方はありません。なぜ、こんな難しい仕事と思い悩まなくとも、これはあなたが与えた仕事です。責任はすべてあなたにありますと開き直り、ただ前を向くだけの人生を生きるのみです。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」❜20/1月号より